現代の小説あれこれ
さいきん、ドキュメンタリー映画の製作に頭をひねっているので、あまり小説を読まない期間が続きました。
で、ちょっと気分を変えようと、久しぶりに読んだ長編がこれ。
久米宏がラジオで推薦していたので、ふだんはあまり手に取らないベストセラーの単行本を書店で購入しました。
塩田武士。『罪の声』です。
週刊文春ミステリーベストテンで、2016年の1位に輝いた作品。
結論からいうと、ぐいぐい読ませる作者の筆力は認めるけれども、読後感はあまりよくない。でも、実際ほぼ一晩で読み切ったのです。面白かったのです。なのに、なにか物足りない。
これは、説明が難しいですね。なにが物足りないのか。
グリコ森永事件を扱ったこの小説。作家は、犯人グループを自らの手でぜんぶ創作し、実際の事件をそのままなぞって、架空の犯人たちをその中にちりばめます。
問題は、犯人たち(主に主犯の男)の動機なのかな。それがいかにも薄っぺらい。
え? そんな理由なんすか……。と思ってしまいます。
これは作者の人間観や社会に対する洞察力の問題なのか。でも、そんなこと、えらそーにわたしから言われてもね。知るかってハナシですけども、そんな気もするのです。
で、話は飛躍しますけども、上記の読書体験が、さいきんの小説を書こうとする人々の状況について、なにごとかを連想させるのです。
わたしは、作家塩見鮮一郎氏がやっている「文藝トーク小屋@新宿」という、いうなれば小説教室に通っています。 以前は、神田にあった「文藝学校」という学校に属していた塩見クラスから、昨年4月に新宿で独立した形です。
そこに集まる若い書き手は、ラノベ、エンタメ志向がほぼ百パーセントですね。別にラノベ、エンタメが悪いとは言いませんが、ほぼ百パーとはどういうこっちゃ?? と思うのです。それだけでなく、わたしと同年輩、いやもっと上の書き手にも、エンタメ志向の人が多い。これもサブカル全盛の時代の影響でしょうね。
文学がある種の役割を担っていた時代が、とっくのとうに終わっていることは自覚していましたが、ではそういう人々はどこに流れたのか。これも結論から言いますと、いたのです。ドキュメンタリーの世界に。
少なくとも、一昨年くらいからわたしがのぞき見たドキュメンタリーの世界では、身を切るように我が身をさらし、表現してやろうと目論む人たちがゴロゴロいました。社会にもの申してやろうと、カメラを手に、街に出る。人を撮る。声を聞く。原発を取材したり、沖縄基地問題に切り込んだり。障害者、性差別、ブラック企業などの労働問題、などなど。
あるいは、自分をさらけ出すことをいとわない表現者にも会いました。障害者である「わたし」とか、コンプレックスに悩む「わたし」などです。
ふむふむ。むかし文学、いまドキュメンタリーか。などと思ったりもします。
しかし。ドキュメンタリストの先輩たちは、それでも後輩たちに不服なようで。
先日、高円寺ドキュメンタリーフェス に行って、コンペティション部門の表彰式を観客席から見ていました。そこに登場したのは、こわもて審査員の代表、足立正生氏。女性ではヤン・ヨンヒ氏。ふたりとも厳しかったですねぇ。入賞作品をそこまで酷評するかと思いました。
記憶に残った言葉は、正確ではないかもしれませんが、「対象に迫り切れていない、なれ合いになっている」ということ。批評性の有無についても、云々していた気がします。
これは小説を書く人間にも言えることですね。ただ、ドキュメンタリーは、少なくとも作り手が対象と向き合って初めて成り立つわけで、NHKの報道のようなものはドキュメンタリーとは言えません。誰が主体で報道しているのか、ハナから表明しているのがドキュメンタリー。なんだかわからん、客観という視点に逃げの一手を打つのがNHKです。
小説を書くときも、一人称の作品ではなくても、文中のどこかに、作者の主体が表れるものだと思います。それを避けようとすると、NHKのような小説になるのかな。
で、ひるがえって、冒頭の小説『罪の声』。ここにも作者の主体性は出ているのだけど、高円寺ドキュフェスの審査員、足立正生氏やヤン・ヨンヒ氏の酷評のようなものを、わたしが読後、感じたのかもしれません。
こんな犯人像ではないだろう、と。こんな動機で、あれだけの事件を起こすなんて、とうてい納得できないよ、と。
そんだもんで、ふと思い出した、10年以上むかしに読んだ、もうひとつのグリコ森永事件を題材にした小説『レディ・ジョーカー』を、本棚から引っ張り出して、読み始めたのでした。
お。さすが髙村薫。ちょっと冗長な気もしますが、筆力以上に違うものがありますね。まだ文庫の上巻半分ほどですけど、そう思います。
嗚呼。読書は快楽だ。
いや、けっして映画から逃げる口実にしているわけではありませんよ……。(^_^;)
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