『全身小説家』というドキュメンタリー映画と「フラジリティの作家、塩見鮮一郎」
一ヶ月ほど前の話ですが、ツタヤで借りて、『全身小説家』というドキュメンタリー映画を観ました。
それがこれ。
ツタヤでは、中身しか貸さないので、パッケージは見ませんでした。
今回アマゾンで検索し画像を見てびっくり。
「嘘もつき終わったので……、」
というコピー(なんちゅうコピーじゃ!)と、作家井上光晴の、ひょいと手を挙げたカットです。
これでは主演の作家井上光晴が、稀代の大ウソつき作家ということになってしまいます。(そういう面がなきにしもあらずではありますが、それを揶揄するのが目的ではなかったはず)
しかも、この映画、撮影の初期の段階で作家のガンが見つかり、当初の予定は大幅に変更、作家の最晩年、その闘病から死までをドキュメントする内容になっています。 だからこのカットは、闘病の果て、最後の年の正月に年始のあいさつに来た人たちを、玄関先で見送る作家の姿なのです。それに「嘘もつき終わったので……、」というコピー。
う~ん。どうなんだろう。考え込んでしまいます。
もちろん、映画はそればかりではなく、作家の人生、生い立ち、家族、作品等、様々な角度で切り込んでいき、それが「全身小説家」というすばらしいタイトルになって表現されました。
そう。井上光晴は全身がこれ、小説家なのです。嘘つきとは違う。
いや、嘘つきでもいい。そんなことよりも、作家の生きてきた昭和史、その中で書かれてきた作品群。その時代や土地の背景。そういったものをもっと扱ってもよかったのではないでしょうか。
それに地方地方で開かれていた「文学伝習所」という活動もある。それは九州から北海道、山形、長野、群馬などに拡がっていきました。
わたしの参加している作家塩見鮮一郎の「文藝トーク小屋@新宿」のようなものです。
井上光晴は伝習所を各地で開きましたが、塩見鮮一郎は、東中野、神田、新宿と場所や形態を変えてはいますが、ずっと東京で40年以上この活動を続けていますね。
それはともかく、井上光晴の活動は多彩で幅広く、執筆活動も旺盛でした。それを「嘘つき」のひとことですますのはどうなんでしょうか。
伝習所で女性を口説きまくったとか、モテ男だったとか、映画に出て来ますし、それもまた作家の一面ではあるので面白いですが、当事者はどうあれ、われわれには些末なことのようにも思います。
それでも「全身小説家」というタイトルは秀逸ですね。
わたしは、「フラジリティの作家、塩見鮮一郎」という短いドキュメンタリー試作品を作りましたが、タイトルにもう少しインパクトが欲しい。
ひとことでその作家を表現するような言葉ってなかなかみつかりませんね。
ならば、「ん?なんだこのことば?」と思わせておいて、その謎解きを映画本編でする、という戦略のつもりでしたが、試作品ではうまくいきませんでした。
今後、長編を作っていく予定ですので、そこらへんをしっかり表現したいと思います。
コメント 0