伝わらないことへの恐怖
内田樹の本、『街場の文体論』を読んでいて、ふと考えました。
ものを書いたり、最近は短いドキュメンタリー映画を創ったりして、思うことがあります。
それは、「これは誰に向けて書いて(撮って)いるのか」という問いかけについてです。
この話って、小説創作の合評の場でもよく出てくる問いで、表現されたもの、表現者に対して浴びせられる、ある種の「正当性」を帯びた問いかけなんですね。
これを問われた場合、表現者は明確に「同世代の女性」とか「中年の男性」とか、きちんと答えられなければならない。 間違っても、「特に読者(観客)は想定していません」などと答えてはいけない。
なぜか。
それは、伝わらない表現は、表現ではないという強迫観念(あえてそう言いますけど)が、表現者に内面化されているからだと思うのです。
今日、ここで告白しますが、わたしはものを書くとき、ある一定の幅の読者(年齢、性別、地域性その他)を想定しません。基本的には。もちろん書くものの種類によっては、そういうことも必要になってくるでしょうが、基本的にはしません。
この前創った短いドキュメンタリー映画もそうでした。つい最近書いた「私小説評伝」というわけのわからないジャンルの《小説》も、読者は想定していません。
これを書くと、もっとドン引きかもしれませんが、そもそも読者を想定する必要がどうしてあるのか、わたしには正直わかりません。
おそらく、いろんな場面でわたしが人と対立するのは、ここですね。
読者なんか知るか、わしは書きたいものを書き、撮りたいものを撮る。みたいに思われている。
ただし、ひと言付け加えますが、わたしは井上ひさしの名言、
「むずかしいことをやさしく、やさしいことをふかく、ふかいことをおもしろく」
に激しく共感するようになってから、あまり難解な表現は避けるようにしています。若い頃はそういう文体に憧れた時期もありましたが、いまはまったくない。
でも、読者は想定しない。っていうか、想定する意味がわからない。
最近、映画作りのWSに参加したとき、「ドキュメンタリーの企画書を書くときは、ある一人の誰かに向けて書くラブレターのようにして書いた方が(企画が)通る」と言われました。
ふむふむ。それはなかなか言い得て妙、です。
言っていることと矛盾するようですが、それは非常に理解できます。一人の読者への情熱のラブレター。
なんだ、読者を想定してるじゃねえか!! とツッコまれそうですね。
それはこういうことです。結局、思いの大きさや熱量の問題かと。あなたにこの恋心を分かって欲しいという熱烈な感情、思い。恋は残酷なので、それでもフラれることが多いでしょうが、思いの大きさや熱さは、相手に伝わっているでしょう。おそらく。
小説や映画もそうかな、と。相手がどう思うか、ではなく、自分はこれを表現したい、書きたい、という熱量の大きさが、書き手や表現者を衝き動かす。作品に入り込んで言葉をつむぐ。カメラを回す。
それでいいんじゃないかと。
ただし、ラブレターと同じで、表現もある種の《賭け》です。しかも、負けることの多いギャンブルだ。フラれることも、ままある。でも、それでも書く。表現する。負けることが多いからこそ、より熱烈に《賭け》に挑む。
ルーレットで、いちばん当たる確立の高い場所、赤と黒とか、偶数と奇数にしか賭けないギャンブラーなんて、面白くもなんともないじゃないですか。
いや、プロのギャンブラーはそうではないのか。地味に、勝ち続けるには、面白さなんて排除する冷静さが必要なのか。
そう考えると、どっちがいいのかわからなくなりますが、少なくともわたしは、血眼になって有り金を全部すってんてんにすってしまうドストエフスキーのような小説家が好きですし、 自分もそうありたいと願いますね。
今、勝つというのは、作品が市場(マーケット)で、より多く商品交換されるということ。100万部売れるということは、100万回、商品として貨幣と交換されたわけですからスゴイですね。
ドストエフスキーがお金のために小説を書いたことは有名な話ですが、書かれたものを読むと、そんなことを微塵も感じさせません。彼の神に対する熱烈な情熱であふれていて、ときに逸脱するほど激しく挑戦的で、あんなラブレターを書かれたら相手もドン引きですが、思いの大きさ、深さは、間違いなく伝わるはずです。
誰に向けて書くのか。撮るのか。
あえていうなら、マーケットではなく、言葉や物語の《神》がいるとして、その超存在に審判を仰ぐようにして書く、表現する、ということなのかな。
読みました。街場の文体論の批評はないのですか。
by 1001 (2016-04-23 16:22)
まだ読み途中だったので。
面白く読んでます。
by わかけん (2016-04-23 16:49)