桐野夏生『バラカ』を読みました。
桐野夏生『バラカ』を読了。3、4ヶ月、映画作りと書き物で過ごしたので、長いものをがっつり読んだのは久しぶり。
3・11から五年。大震災、大津波、そして原発事故から5年の歳月が過ぎました。
忘れてはいけない、風化させてはならない、と人も自分も言うけれど、時間は残酷に前へ前へと流れ、過去はどんどん薄れていく。神戸の地震では姉を亡くしたので、その風化の速度は人よりも遅かったように思いますが、それでも過ぎ去った年月は、現在の時間の濃密さに勝ることはありません。
わたしはそれが辛かった。大事なものが少しずつ溶けて自分のものではなくなり、大海原に帰っていくような感覚。 悲しいけれど、ほんの少し、安堵したりもする。
忌まわしい記憶をいつまでも同じ濃さで抱えていると、人はおそらく狂ってしまうでしょう。だから、忘れることも必要。という説明もなされますね。
そうこう考えると、小説とは、なかなか結構な記憶装置なのかもしれません。
小説『バラカ』は、福島原発事故以降のこの国の、ひとつのあり得た近未来を描いています。
「あり得た」というのは、原発事故を、現在われわれが把握している規模(本当のことは誰も分かりませんが)よりもじゃっかん大きめに設定して、関東から東北全体が広範囲に汚染されてしまったとされているからです。
作者は、3・11以前から書き始めた長編小説を、途中から大幅に軌道修正して原発事故後の小説に、いわば強引に仕上げました。 作者の小説を読みなれている人は、おそらく「あ、この強烈なキャラは、3・11以前からのだな」「これは3・11以降に創ったキャラだな」などと、登場人物を読み分けることも可能だと思います。桐野作品がほとんど初めてのわたしでも、なんとなく分かります。
それは、小説としてはマイナスなはずで、作者も出来ればしたくないでしょう。でも、今回は違った。書いていたものが、3・11、とくに原発事故によって、よりいっそう切実に書きたいものになったのではないか。
あるいは、3・11、とくに福島原発事故を、小説家として「なにがなんでも書かねばならない」と、腹をくくったのではないか。そんなふうに思います。
で、読者としては、「忘れまい」とする意志や希望に反して、少しずつ忘れかけていたものが、沸々とよみがえってきた感じです。忌まわしい記憶というより、向き合わねばならない現実として。
原発事故、ですから。地震や大津波とは違う。
時間が経つと、その違いが薄れてくるのですが、この小説は、ガツンとそれを思い起こさせます。
小説としての結構がどうだとか、キャラの設定がどうだとか、結末に不満だとか、そういうことをぜんぜん言いたくならない。
強烈なストレートパンチを喰らった印象です。
この方が、効きますね。
福島原発事故。忘れるものか。
読みます。
なにを読むか、
迷っていました。
ありがとうです。
by 1001 (2016-04-15 03:42)
なかなか原発事故を真正面に描いた小説ってありませんね。
その意味では「まだ五年」なのでしょうか。
by wakaken (2016-04-15 09:27)
なかなか、どこかへ行きましたね。
残念、
なにひとつうまく行かない古る年か。
by 1001 (2016-04-23 01:47)
「なにひとつうまく行かない古る年」
ですね。
わがことも。
by wakaken (2016-04-23 14:27)