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土地のこと、旅の終わりの養老

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GWの旅のことを書いているうちに、もう8月になろうとしていますね。

神戸から大阪経由で、旅の終点養老にやって来ました。
この日は五月晴れ。向うに養老山脈が見えます。あの山並みの中腹に、有名な「養老の滝」があります。

そういえば、関東に来て驚いたことにひとつは、「養老の滝って知ってる?」と聞くと、「千葉のでしょ」と言われることが圧倒的に多いこと。滝の清水が酒になる養老伝説も、意外と知られていません。知っていても、「へえ、それって岐阜にあるんだ」と返ってきますね、たいてい。

ついでにいえば、岐阜県に実家も本籍もあると言うと、「岐阜といえば高山でしょ」ときます。
こっちの人は、高山くらいしかイメージしないんですね。岐阜。超マイナーで地味なイメージ。

ちょっと前まで、岐阜出身といえば、中日のかつての名選手高木守道とか、巨人Vナインの正捕手で西武の監督を務めた森祇晶とか、やっぱり超地味地味観は否めません。
最近、金メダルの高橋Qちゃんとか、ようやく明るいキャラが増えましたけど。

そんなことはさておき、実家のある養老の話です。
かつて、じいちゃんばあちゃんの時代まで農家でしたから、母屋があって納屋があって、ついでに倉庫代わりに使っていた蔵と離れがある典型的な農村の家でした。
築百年近かった母屋と父親の勉強部屋として作った離れは、十年前に建て替え、ずいぶん立派な家屋になっています。


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村はずれの畑で養老山脈を眺める父親。

昭和11年生まれにしては兄弟が少なく、姉ひとりしかいません。農家のひとり息子長男坊。しかも小学生のとき大病をして、約一年間寝たり起きたりの生活でした。だから本ばかり読んでいた。勉強も出来るってんで、じいちゃんが張り切って離れを建てたのでした。
それが功を奏したか、京都の大学まで行って、結局そこで教員になり、実家の農家を継ぐことはありませんでした。
18で家を出て、72で私立大学を退職するまで、養老に帰ることはなかった。住むことはなかったという意味ですけど。


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これが母親。
こんな農家のばあちゃんみたいな恰好をしていますが、父親との結婚前は、名古屋の女子大を卒業したバリバリのお嬢さん。キリスト教徒でもあります。女子大時代、旅先の京都で父親が下宿しているお寺に泊まったのが、運命の出会いとなりました。
だから、どうしても養老に住みたがらない。
今は、名古屋の郊外にあるキリスト教系のホームと、養老とを行ったり来たりの生活をしています。

ところが、最近体調を崩した父親が、医者に「養老にいれば体調はよくなる」とズバリ指摘され、養老にいる期間が長くなったそうで。女房に付き合って、長く養老に帰ることはなかったけど、やっぱり生まれ育った土地が一番、父親にとっては良いんですね。
小学生のときも病気がちでしたが、30代で二度大手術を受けて腹を切り、72のとき腹部動脈瘤破裂で死にかけた。その父親が、ここのところずいぶん元気になったのは、養老の土地と水と空気が合うのだと思っています。

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その土地のことを書こうと思ったのでした。

村の中には、こういう空き地がいっぱいあります。
今回、両親に引っ張り回されて、ひとつひとつ叩き込まれました。
村の中に十数か所、ネコの額ほどの私有地があるというのです。初めてそんな話を聞きました。

小さな畑を作るくらいしか利用できない土地。畑さえも出来ない荒地もありました。
「なんでこんな土地が、うちのものになってんの?」と聞くと、驚く答えが返ってきた。

「わからん」

へ?
わからんって、ああた。どーゆーこと?

でも、じいちゃんもひいじいちゃんも、大切に守ってきたのだそうで。
「俺が死んだらお前が守るんだぞ」
って言われてもねえ。畑でトマトでも作ろうかしゃん。。(やるわけねえな……)

父親もよく分からないけれど、なんでも、明治になったばかりの頃ですから、私の祖父母の祖父母の時代だと思われます。働き者の祖先が、農民として必死に働いて、村の中のネコの額を、ひとつひとつ買い取っていったそうです。なんのために? と父親に聞くと、やっぱり答えは、

「わからん」

う~。肝心なことは何もわかんないのか。


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唐突ですが、最近、赤坂真理のこの本を読みました。
『東京プリズン』で賞をいっぱいもらった赤坂真理。その勢いそのまま、日本戦後論を語っています。
その中に、こんな言葉がありました。

『高度経済成長期とは、人が私有を追及するために共有空間をなくしていった過程であったとも言える』

第三章、「消えた空き地とガキ大将」に出てくる言葉です。ドラえもんのジャイアン論の章で、これがなかなか面白い。
ドラえもんといえば、空き地にピラミッド型に積まれた三本の土管ですね。それがなくなっていった1960年代の話です。

平成になって、すっかり「人が私有を追及する」のが当たり前の世の中になりました。
でも、かつては違った。空き地は「共有の場」だったし、そもそも誰のものでもない土地は、いたるところにありました。すべてが商品と化したのは、最近のことです。でも、その流れは、明治維新とともに始まった。

『アメリカの脅迫から日本の近代は幕をあける』

これは塩見鮮一郎『解放令の明治維新』の冒頭の一文です。
この数行後、

『このときから日本はアメリカの恫喝を受けつづけることになる』

という言葉に接続します。
この明治維新観と、敗戦後のアメリカ占領時代を引きずった戦後の日本。
結局、近代の日本は、アメリカによって、アメリカに従属することで生き延びてきた。150年も。

なんでこんな話をしているかというと、私の祖父母の祖父母の時代の養老でも、近代が幕をあけ、それと同時に土地の私有が始まった。150年たっても畑ぐらいしか利用価値のない土地で、その意味では予想は外れましたが、ひいひいじいちゃんは、先見の目があったのかもしれません。せっせと働いては、ネコの額の土地を私有化していったのだから。

父親が元気になったのは、養老の土地と水と空気が合っているからだと、先ほど書きましたが、「土地と水と空気」は、人間にとってもっとも大切なもので、本来は共有の財産です。それが商品化されていったのが近代150年の歴史ですね。アメリカに従属し運命共同体として生きた150年。

奇しくも、父親の大学での専門分野は「アメリカ文学」でした。細かく言うと、黒人をテーマにした演劇を研究してたそうで。今も離れの書斎の本棚に、「テネシー・ウィリアムス」とかが、ホコリをかぶって放置されてます。

でも引退してからは、「英語なんてつまんない。オレ、短歌で賞を取るぞ! 」などと言って張り切ってますね。生まれ故郷の養老で、短歌をひねりながらの余生がよほど肌に合っているみたい。
近代人の母親に引きずられ続けた人生でしたが、最近はどうも様子が違うようです。

そういえば、父親は大学時代英文学専攻でしたが、民話創作サークルに入り、自分で創作民話を書いていました。
京都に出て、すぐに養老が恋しくなったのでしょうか。
大学を卒業し、いったんは高校の教員になりますが、一年で嫌になって退職、大学院に舞い戻ります。内気な性格なので、研究者がいちばん自分に向いていると思ったのでしょう。職業選択のため、英文学の世界に入った。そういった面があったのかもしれません。

でも、今や養老で短歌です。
母親に付き合って、教会に行ったりもしますが、キリスト教に入信するつもりはないみたい。

私も、だんだん養老という「土地と水と空気」が自分のものになりかけている気がします。
若いころは、母親の実家がある愛知県刈谷市のほうにシンパシーを感じていたのですが。

こうなったら、ひいひいじいちゃんの残してくれたネコの額で、トマトでも作ろうかな。
ん~、やっぱ、まだトマトは無理かな。。






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