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岡山、神戸、岐阜への旅 その6

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神戸にやってきました。
岡山からの経路は端折って、ハイ、いきなり神戸市東灘区に到着です。

南魚崎村と読めますね。六甲山に向かって撮っています。
映ってませんが、右手に六甲ライナーと住吉川があります。
この角を曲がって、旧住吉村に入りました。
しばらく歩くと、住宅街の中、四角に区切られた墓地があります。
探していたのは、これ。

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正面には「南無阿弥陀仏」としか彫られていませんが、この墓石の乗っかっている台座のところに、「弾」の文字が読めます。

そう。これ、第十三代弾左衛門こと、弾直樹さんのお墓なんですね。彼はこの住吉村の出身なのです。江戸、浅草にもお墓がありますが、故郷であるこの地にもあります。

小説『浅草弾左衛門』では、「第一巻 天保青春篇」で、住吉村における弾直樹の少年時代(幼名は小太郎)が描かれます。
住吉村のところをちょっとだけ引用すると、


住吉村は、御影村と魚崎村にはさまれ、南北に長い。七ヶ町からなっていて、そのひとつ、中ノ町だけが皮多だ。(小学館文庫『浅草弾左衛門 第一巻』67頁)


皮多とは、江戸における穢多身分のこと。
今でも阪神神戸線の駅は、大阪に近い順でいうと、魚崎、住吉、御影と並んでいますが、江戸時代は、これがそのまま村名だったのですね。
その住吉村の「中ノ町」については、この本から引用してみます。


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『弾左衛門とその時代』の第三章。「弾直樹の生涯(小伝)」から


 中ノ町は古くからひらけた土地で、四世紀中ごろに建てられた本住吉神社があり、求女塚(東)と呼ばれる前方後円墳もある。いまの住所でいえば、神戸市東灘区住吉町一丁目である。
 住吉村は、維新直後のころ、五百五十戸、二千人少しが住み、山田町、空町、西町、茶屋町、吉田町、中ノ町、呉田町の七ヶ町にわかれていた。中ノ町が被差別部落で、八十八戸あった。
 小太郎が生まれたのは、ここである。当時は摂津国に属し、菟原郡灘住吉村中ノ町であった。


小説『浅草弾左衛門』は、ここ住吉村中ノ町で生まれ育った小太郎少年に、江戸の第十三代弾左衛門を襲名するという話が舞い込んでくるところから物語は始まります。

最初に読んだときは、よく分かりませんでした。なんで、関西の貧しい村で育った少年が、江戸の穢多頭を襲名することになるのか。そもそも弾左衛門制度とはなんなのか。
『カムイ伝』でも、弾左衛門が出て来ますが、忍者の陰の親分みたいに描かれていて、それはそれでよく分かりません。
ですから、塩見氏の『弾左衛門とその時代』は、小説の解説本として、同時に読んでもらいたい本ですね。

塩見氏の著作を読んでいくと、江戸の見方がずいぶんと変わってきます。江戸は様々な身分が寄り集まった百万人の大都市ですが、その何パーセントかは、賤民たちです。それも、穢多や非人だけではありません。
そのあたりのことは、この本から引っ張ってみましょうか。

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河出文庫『乞胸 貧民に堕ちた武士』です。


 享保十年(1725年)に弾左衛門が奉行所に提出した文書には、中世以来、つぎの二十八座を支配する権限があたえられていたと主張している。
 一、長吏(穢多身分のこと)
 二、座頭(盲人の組織・当道座に属する人で、あんまのほかに琵琶を弾いたりする)
 三、舞々(鼓にあわせて謡いながら踊る)
 四、猿楽(物真似や曲芸、能や狂言)
 五、陰陽師(加持祈祷のまじない師)
 六、壁塗(左官)
 七、土鍋師(土鍋を作り売る人)
 八、鋳物師(鋳物職人)
 九、辻目暗(当道座に属さない盲人のこじき)
 十、非人(こじき。車善七などの組織に属する抱非人と無籍の野非人がいた)
 十一、猿引(猿に芸をさせて馬の安全を祈る)


ふう……。
二十八ぜんぶを引用するのはやめますが、江戸の中頃は、こんなにたくさんの賤民たちが、弾左衛門の支配下にあったわけです。時代が下るにつれ、少しずつ支配を抜けていきますが、幕末まで非人と猿引だけは、直接的な支配下に置かれました。

こういった多くの賤民たちも歴史の中に生きていた。士農工商穢多非人などと習いましたが、そんな単純に割り切れるものではなかったのです。
それを、小説やエッセイなどの面白い読み物として世に出してくれたのは、ほとんど塩見鮮一郎氏以外にいないのではないでしょうか。

あれ。話がどこかへ暴走しました。

弾左衛門のお墓のことを書いていたのでした。
今、お墓は、住宅街の中にひっそりとあります。
歴史的な人物なのに、なんの標示もありません。触れられたくないのでしょうか。
墓地の入口もこんな感じで、なかなか見つけられませんでした。



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ところで、最初に引用した『弾左衛門とその時代』には、こんなことが書かれていました。


 私事になるが、わたしは魚崎に親戚があったーーまだ高校生だったが、夏休みに何度か行き、住吉川のほとりとか酒倉の並ぶ道を歩いたことがある。


奇遇ですねえ。
わたしも魚崎に姉がいました。95年の震災で亡くなりましたが。

次回は、その姉の墓参りです。



続く




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コメント 6

wakaken

ご指摘を受けました。
浅草本龍寺に残されている弾家の墓は、十三代のものではないのですね。
相変わらずテキトーな勝手研究者ですいません。
関東大震災で焼失し、再建はどこにされたのか。
とすると、分かっているのは、この神戸のお墓だけ。
なのに、隠されているかのように、入り口が分かりにくくなっています。

by wakaken (2015-06-17 09:38) 

長野のせんせ

住吉村魚崎の報告。いつか行きたい場所。
小太郎13代の晩年を想い浮かびます。
東京芝大門の人権ライブラリーの蔵書に縁ができ、昭和18年刊、昭和43年復刻の三好伊平次さんの『同和問題の歴史的研究』を読了しました。
明治憲法下で同和問題に肉薄した大作だと思いました。
もちろん小太郎の弾左衛門の記述もありました。
by 長野のせんせ (2015-06-17 21:30) 

1001

その本のコピーはありますが、
せんせ、
復刻版は出てないのでしょうか。
自分で調べればよいか、
恒例のあの会は、8月1日ぐらいです。
by 1001 (2015-06-18 01:29) 

1001

粗忽長屋の住人か。
昭和43年ののちの復刻版のことを考えていました。
融和主義者の親玉として、同盟系はうれしくない。
戦後すぐの解放論は井上理論ですから。
三次伊平次は大切にされなかった。
無視されがちでした。
そのことによる「歴史認識のかたより」はどうしようもなかった。
by 1001 (2015-06-18 01:41) 

1001

翼賛政治に加担した男ですから、
神道びいき・廃する仏です。
神道に甘く、仏教に辛い。
この人も色眼鏡で過去を見ます。
もちろう、みんなそうなるのですが、
でも、あの愚鈍な時代精神につかまっているとは。
西光が三好に会いたがらなかったのは、いい勘です。
でも、西光は三好と通じ合うものを持っています。
いいか悪いかではなくて。
まわりの政治主義者、権力亡者よりはましのふたり。
by 1001 (2015-06-18 02:05) 

wakaken

三好伊平次のその本は『脱イデオロギーの部落史』で知りました。
この本の、第四章「肉食神饌皮革等の変遷」は圧巻だ、と。
読んでみたくなり探しましたが、復刻版とはいえ、大学図書館で取り寄せるしかないと思いきや、後日、なんと中央区に在庫があると知りました。

『脱イデオロギー』の208頁あたりは、三好の本から始まって、肉食禁忌の真実に迫る部分です。原田信夫『歴史のなかの米と肉』という興味深い本も紹介されている。
あ、わがHPのタイトルは、ここからもらったのだったか。

三好は小説『西光万吉の浪漫』にも登場しますね。
若者たちの水平社創立大会を阻止しようと、五十を超えた三好は、内務省社会局嘱託という立場で、今で言えば億以上のカネをぶらさげて西光らを釣ろうとする。
ふざけんな!!とそれをけっ飛ばす若者たちに喝采を送りながら、水平社宣言に続くこの場面を読みました。


by wakaken (2015-06-18 12:10) 

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