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岡山、神戸、岐阜への旅 その4

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ネットで見つけた、昭和30年代頃と思われる岡山電気軌道の写真です。
岡大に通う学生服姿の鮮一郎青年が、文庫本『破戒』を読みながら、揺れるシートに腰かけている気がします。


さて。超近代的な2両連結の岡電(気に入ったので、オカデンと親しみを込めて呼ぶことにします)を終点東山で降りました。中納言からわずか2駅ですが。

それにしても東山(ヒガシヤマ)。京都を知っている人なら、「あ、あの東山ね」ってピンとくる。かつての城下町岡山市は、京都にある地名が多いのです。これについては、塩見鮮一郎氏がHPで書いているので、そこから引用させてもらいましょう。


「おかやま」とは、丘の山で、城が丘にあったので、この名になった。ただ、旭川が倉敷のほうに流れていたのを城の下に導いてきて、いまのかたちになった。内田百閒の筆名になった百間川は比較的に新しい支流である。また、岡山市はモデルを中世の京都にもとめた。だから、京橋という橋があるし、東山という山がある。この東山には江戸時代の初期に東照宮が置かれた。徳川にゴマをすってみせたのであるが、いまは玉井宮という。岡山駅から路面電車に乗ると終点が東山で、玉井宮の入り口である。この電停から左に入ったところが徳吉町で、むかしの寺町であった。電車の車庫になった広い土地も寺の跡かも知れない。


塩見氏は面白い人で、ご自分のHPで「転居歴」を詳しく公開されています。
生まれてから、2005年の67歳までしか書かれていませんが、それでもなんと! 21か所転居されている。上の引用は「⑤岡山市徳吉町 1942-45 4歳-7歳」からです。五番目に住んだ町ですね。それが東山の近くにあるのです。

これは、いろんなところで塩見さんが書かれていると記憶しますが、ここで不思議な体験をするんですね。
不思議なと私が思うのは、転居歴のところで1942年ー45年とありますように、戦時中なわけです。

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これが徳吉町の現在です。家は建て替えられていますが、石垣が残っていた。
この石垣は軍が造ったそうでして、その上には軍靴工場があった。その宿直室に母子二人で住んでいたそうです。

勝手研究者としては、ピンとくるものがある。
軍靴=矢野直樹。江戸の第十三代浅草弾左衛門のことです。明治になって矢野直樹と改名した弾左衛門は、その皮革加工の技術を生かして、軍靴工場を作ります。西洋靴の生産に乗り出すんですね。今も浅草には靴屋がたくさん残ってますが、これはその頃から続いているわけです。

不思議なというのは、塩見氏は弾左衛門について書いていて、ふと「そういえば幼い頃、軍靴工場に住んでいたな」と思い出すわけです。すると、その工場には、部落の人々が働いていたことも記憶の奥底から湧いて出てきた。それまでぜんぜん忘れていたのに。

そんなことってあるのかしらん。
なんとなく私は、無意識の意識が、作家塩見鮮一郎を、岡山の架空の被差別部落を舞台にした最初の小説『黄色い国の脱出口』から「矢野直樹=浅草弾左衛門」にまで結びつけたような気がします。偶然ではなく。
ま、偶然だとしても、人生って面白いですね。いつの間にか、幼い頃見聞きして忘れていたことを、小説やエッセイで書いていくことになるわけですから。


さて。永井荷風が岡山で空襲に遭遇したことは、割と有名な話で、荷風自身日記に書き残していますが、7歳の鮮一郎少年も空襲に会っています。「⑤岡山市徳吉町」の次に引越した「⑥岡山市門田屋敷の師範学校ちかく 1945 7歳」の時です。
こんなふうに書いている。HPにエッセイがあったので引用します。



百三十八の段 命からがら

空襲のことをくりかえし思いだす。アメリカ軍が北ベトナムやアフガニスタンやイランなどを爆撃するたびに、あの飛行機のしたを逃げまどう恐怖を想起する。かるいPTSD(心的外傷後ストレス)になっている。
そのトラウマをここにすこしばかりくわしく書いてみる。それが治癒にむすびついてくれるのをねがいながら。
真夜中に母にたたきおこされた。
わたしは八歳、小学校二年。岡山市東山三丁目の十字路に面した二階建ての一軒家に住んでいた。
借家だと思うが、二階には東京から疎開してきた大家族がいた。
「空襲よ」
と、母にいわれると、ひとりで二階にかけあがった。そこからだと、なにか見えるとでも思ったのか。ひくい天井のへやに、東京からきた家族がつっ立っている。だれも寝ていないし、すわってもいない。おおきな影がならび、てんでになにかいっていて、そんなことはこれまでにないことだから圧迫をおぼえた。
「西からやられている。空が赤い」
と、窓のそとを見ていただれかが声をはりあげた。
「すぐにこっちへくるぞ」
「山へ逃げろ」
と、つづいた。
空襲のときに逃げる場所はきめてあった。わたしは階段をころがるようにおりると、
「敵機来襲」
と、母におしえた。
「二階のおばちゃんらとさきに逃げなさい。おかあちゃんはあとからじきに行くから」
と、母がきびしくいい、防空頭巾(ぼうくうずきん)をつきだした。
そのときには、二階からもうみんながおりてきていた。廊下を走りぬけてうら口からでて行く。だれもわたしに声をかけてくれない。自分のことでせいいっぱいなのだ。わたしもまた動転していた。なにも考えられない。母のこともかまっていられない。
はだしで土間にとびおりてから、くらがりに下駄をさがした。片方しか見つからない。そとの通りから人のするどい声がとどいてきた。荷車の車輪ががらがらとひびいた。足音が地鳴りのようにつづいている。いよいよあせって、下駄の片方だけで走りだしたが、すぐにぬぎすてた。だれもがちかくの山にむかっている。自転車を手でおしている人もいたが、荷物をもっている人のほうがすくない。寝こみを襲われて着の身着のままだ。わたしのようなねまきすがたで、まえをはだけたまま走っている。
B二九の爆音がちかづいてきた。一機ではなく、つぎつぎとつづく。
「ふせろ」
と、知らない男がまわりの人にむけてさけんだ。
きょろきょろしたのち、もっとも安全に思えた道路わきのみぞにとびこんだ。幅が六十センチほどだから、おおきなおとなにはきつい。生活排水を流すみぞで、五十センチほどのふかさに、十センチ少々の水がよどんでいる。どぶは市中にくまなくはりめぐらされていて、そこにはふやけた米粒が浮いていたり、水草がゆらめいていた。ちいさい蟹(かに)がいるので捕ってあそんだ。きたなくてくさいにもかかわらず、わたしはすすんでとびこみ、背をまるめてふせた。
爆弾が燃えながらおちてきてた。
女たちが叫び、赤子が泣いた。わたしにあたるのか、あたらないのか。もううごけない。運を天にまかせている。そばの長屋が燃えあがれば、熱風につつまれてしまう。
飛行機が飛びさると、
「いまのうちだ」
と、だれかがいった。
おきあがり、道にはいだした。くろい影がいくつかたおれていた。死んでいるのかどうか。だれもかまおうとしない。おとなにまぎれこみ、あいだにはさまれたまま、丘に通じる坂道に入った。もうすこし、まっすぐにすすむと、丘の頂上へ直接通じる山道がある。一瞬、まよったが、ひろい通りをすすむ勇気がわいてこない。そこだと飛行機からまる見えになってしまうように思えた。
それで両側に家のならぶ、ほそい坂道をみんなといっしょに丘へといそいだ。
また飛行機が頭上に近づいた。さっきよりは低く、黒い影がおおきく見えた。家のとぎれたさきの左手に竹やぶがある。おとなに押されるまま、われさきに入り、おおきな穴にとびこんだ。底がじめじめしていた。とがったものをふんで、けがをしたようだが、すこしもいたくない。なにも感じない。それに声もでない状態になっていた。
物の落下する音がした。空気がひゅるひゅると鳴っている。焼夷弾は空中で爆発して、ちいさい油煙の玉になって花火のように空中にひろがり、燃えながらおちてくる。木と紙からできている日本家屋を焼くためにはじつに好都合であった。
さきにどぶにうつぶせたときよりも、こんどはずっとこわかった。西から始まった空襲は、もう町の中心部まで焼いたのだろう。東のほうに集中してきているのがわかった。頭巾をふかくかぶりなおした。
おおきな穴が人でうまった。くらがりに黒い人影があとからあとからやってくる。母の姿がないかと目をこらしたがわからない。いつのまにか、二階のおばちゃんらともはぐれてしまい、まったくのひとりぼっちだ。
爆音がきれると、プールのような穴をでて、ふたたび坂道をのぼった。もう左右に家はなく雑木がしげっている。ずっとさきの頂上に料亭ふうの一軒家がある。まわりはその家の畑で、そこの崖に横穴の壕が掘ってあった。なかはぎゅうぎゅうだったが、おとなが隙間をあけてわたしをいれてくれた。
焼夷弾の鉄の破片が音をたてて地面にぶつかっている。
ずいぶんとながく防空壕(ぼうくうごう)で息をひそめていた。泣く赤子を懸命にあやす母親のひくい声がするだけだ。みんな黙然(もくねん)とうなだれていた。直撃されれば全員が焼け死ぬだろう。つらい時間だった。
夜がしらみかけるとしずかになった。
こわごわとそとにでた。丘の端に立つと市街が一望できた。きのうまでは家で埋まっていたそこは赤い炎の海だった。空の雲までが染まっていた。
「おわった」と思うと気持ちがほどけた。それでよけいにきれいに見えた。
あとにもさきにも、あれほど迫力がある豪華な眺めを知らない。だれもが息をのんで見つめていた。
一軒家で炊き出しが始まったとき、わたしは母とあえた。
「どうしてこっちの山道からこんかったの。あっちの坂は家が建てこんでるから、もし火がついたら通られんようになるじゃろ」
と、いきなりしかられた。
そのころには雨がふりだしていた。大火にあぶられた空気が上昇して雲になり、夕立のような雨になってふりそそいだ。原爆のあとにも黒い雨がふったそうだが、ふつうの空襲でもおなじで、煤(すす)のまじるよごれた水滴だった。丘の家の座敷にあがって、母といっしょにおにぎりを食べた。おおぜいの人が、だれの家でもないかのように、気ままに出たり入ったりしていた。ぬれたゆかたがいつのまにかかわいていた。
わたしの家から山がちかかったから助かったのだろう。子どもの足でもおくれないで逃げのびた。市中を流れる西川(にしがわ)や旭川(あさひがわ)には、黒こげの死体がいっぱい流れているとあとできいた。わたしは数か所のかすり傷ですんだ。
ただ、どこでだったのかわからないが、焼夷弾の火の粉を手の甲にあびていた。皮膚を焼いた油の玉は時間とともに肉にもぐりこみ骨にまで達するときいていたが、火の粉が微量だったのだろう、十個ほどのそばかすが指にできた程度だ。この赤い斑点はそれでも五十歳ごろまでは鮮明に見えて、人からよく、「指のそれ、どうかしましたか」とたずねられた。老人になったいまでも、うすれはしたが、まだいくつかのこっている。


「老後の楽しみ」というHP発表のエッセイからです。
岡山大空襲と言われている米軍の無差別爆撃で、約1700人が死亡し、家屋1万2千戸以上が焼失したそうです。


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(空襲後の岡山市内)


こういう記憶も、作家塩見鮮一郎を形成していくひとつの要素になっている気がしますね。


それにしても転居歴21回はすごいですね。
ところが私も引っ越し癖がありまして、指折り数えたら49年間で18回でした。塩見氏が67年で21回なら、ふふふ、勝てるかもしれません。

それはともかくとして、岡山の旅人は、東山駅に戻り、またも岡電に乗ったのでした。

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こんどはこんな車両。
なかなかカッコイイ。

旭川が見えて来ました。
京橋から、かつての遊郭のあった場所を写真に撮りました。


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続く





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コメント 2

1001

遊郭は旭川の中州ふたつにありました。
小橋・中橋・京橋と三橋があります。
戦前から遊郭には停留所がありません。
子ども心に不思議に思ったものです。

若山さんには失礼ですが、写真は中橋が小橋から
撮ったものと思います。

この遊郭には、荷風と吉行淳之介の足跡があります。
わたしが20歳のころ中島のバーに行ったとき、
ここによくきていたという話でした。

いい男だったとか。
by 1001 (2015-05-29 00:37) 

wakaken

あ、確かに。
適当なことを書いてはいけませんね。
これは中橋か小橋から撮ったものです。
京橋からこの角度だと違う風景になりますね。
すみません。
by wakaken (2015-05-29 09:27) 

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