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神戸 1995.1.17 第7回

 
 由佳は保育園に通うようになっていた。まだ二歳だし、園には待機児童も多くいたはずだが、震災孤児として優遇されたからか、育てている祖父母に定職があるわけでもないのに、保育園に入園出来たようだった。私の両親、特に母親からすれば、それは「通わされていた」になる。仕事も辞めて、孫娘と一日中向き合って子育てする覚悟を決めたのに、あなた方、それはないだろう、と。
 保育園のことは事前に知らされていたので、そのこともまた私たちの行動に火をつけたのかもしれない。まだ震災後数か月しか経ていないのに、保育園に通わされている由佳に対する不憫の念と、もうひとつは、保育園ならチャンスがある、といういささか際どい動機だった。
 私が運転する父親のワゴン車は、助手席に父親、後部座席に母親を乗せて、静かに保育園の正門前に停まった。午後四時か、四時半頃だったと思う。五月の陽光が降り注ぐ、暑いくらいの日だったと記憶する。門の横にこんもりと植えられていた紫陽花の、白をふくんだ薄紫の花びらが、目にチカチカと眩しかった。

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 ある筋から情報を得て、私たちは、由佳の祖父が迎えに来る時間を知っていた。もっぱら先方の父親、由佳からすると祖父が、保育園の送迎を担当していることも聞いていた。だから、その三十分前を狙ったのである。バッティングしたらそれでアウトだし、早すぎても保育園から怪しまれる。
 実は、今日のこのために、母親は一度保育園を訪れ、由佳に会っていた。突然の訪問だったが、怪しまれないように何かと理由をつけ、自然に面通しをしておいたのである。短期間とはいえいっしょに過ごしたこともあるし、由佳は私の母親にとても馴染んでいた。このことで、由佳のもう一人の祖母であるという園からの信頼を得た。すぐに先方の祖父母は、そのことを知ったようだが、特に問題視しなかった。世間の体裁を重んじたか、両家が争っているということを、表ざたにしたくなかったようである。
 この日、私の役割はもっぱら運転手。父親は助手席に座り、土気色の顔で唇を震わせている。主たる役割は、結局、最初から最後まで、すべて母親が担った。
 その母親が、意を決して車のドアを開けると、保育園の通用門から入って行った。門から園の中はよく見えない構造になっていて、私と父親は、ただ待つことしか出来ない。
「こんにちは。この前お邪魔した、由佳の母方の祖母です」
「あら、この前、来はった、名古屋のおばあちゃん!」
「はい、そうです。実は、由佳のおじいちゃんが、今日迎えに来れなくなって、代わりにお迎えに来たんですぅ」
「あれ、そやったんですか。由佳ちゃん、よかったねえ、今日はおばあちゃんがお迎えよ」
 とまあ、そんな会話がなされたのだろう。由佳はといえば、おばあちゃんに抱かれて、上機嫌だ。園の職員も見知っている顔だし、安心してしまったのだろう。
 途中まで職員に見送られたようだが、門を出てからは、二歳の孫を抱いたおばあちゃんとは思えないスピードで車に近づくと、「早く、早く車を出して!」と、震えながらも、サスペンス劇場ばりのセリフを吐いたことは、今でもよく覚えている。私もまた、二歳の子どもを乗せているとは思えない荒っぽさで、これもさながらサスペンス劇場のように、ワゴン車を急発進させた。サスペンスになり切れない可愛そうな大学教授だけが、土気色の顔をさらに昏くして、震えながら、それでも由佳を獲得した悦びと不安のない混じった表情で、孫娘の小さな手を握りしめていた。
 すべて後から知ったことだが、この直後、保育園は大変な騒ぎになったらしい。先方の家に確認の電話を入れた職員は、あまりのことに、顔面蒼白になったことだろう。警察も呼ばれた。保育園に、祖父母が怒鳴り込むように入って来る。特に亡き夫の母親は、ものすごい形相で、職員や園長に食らいついたに違いない。担当の職員や園長には、本当に申し訳なかったと思っている。
 だが、結局、私たちが一番恐れていた警察沙汰にはならなかった。向うはそれを望んで、すぐにでも由佳を取り戻したがったが、内輪の問題ということで処理された。
 こうして、裁判が結審するまで、由佳は私の両親と、二か月余りを過ごすことになった。しかし、たったの二か月である。その後、今日までの約二十年間を、先方の親権のもと、箕面市の家で、由佳は成長していくことになる。私たちが顔を合わせることは、結審以降、いっさいなくなった。先方の母親が強い意志で拒否したからである。
 それは、「この子には、母親はいないものと言い聞かせて育てます」というほど、強固な拒絶だった。母親がいないということは、姉の弟である私も、私の両親も、由佳にとっては、この世に存在しないのである。当初、まさかそんなことはしないだろうし、出来ないだろうと思っていた。だが、この母上様は、それを本当に実践した。本当に、由佳の記憶から、由佳の母親とその家族を抹消していったのである。

 私は、今回の文章を書いていて再確認したのだが、この二十年間最も謎だったのが、この先方の母親の心情だった。もちろん、保育園から無断で連れ出したのだから、怒り心頭に達するのも理解できる。だが、そこまで追い込んだのは、もとよりこの母親の頑とした拒否の態度ではないか。
 震災後出版された姉の絵本は、「震災で亡くなった母親が残した娘へのメッセージ」としてマスコミに何度も取り上げられ、由佳のところにも取材の申し込みが数回来たらしい。しかし、それらのすべてを、この母上は断っている。
 魚崎の倒壊現場跡にキリスト教系の老人ホームが建ち、その場で亡くなった人がいるということで、夫婦の名前が刻まれた小さな石碑が置かれた。ホームの好意で、いつでも私たちは、そこに花を手向けお参りすることが出来た。しかし、この母上は、一度も由佳を連れてここに来ることがないという。これらはすべて、由佳には母親がいない、ということを徹底するためだった。もちろん、箕面の実家に送った姉の絵本は、由佳が読むこともなく、廃棄されたに違いない。
 実は、姉の結婚前、夫の「俺が、俺の母ちゃんから、お前を守るさかいな」という言葉からすでにその兆候はあった。結婚前と、この孫娘をめぐるゴタゴタのときに、そのことは話題になった。とにかくすごい母上だと。
 亡き夫が生前私たちに語ったのは、断片的だったが、次のようなものだった。
 夫の高校時代から、それは夫の弟が中学生の頃になるが、その頃から長期間、家を不在にすることが多くなったということ。それは、もともと山歩きが趣味だった母上が、ふとしたことで俳人山口誓子の門下生になり、俳句の吟行山歩きと称して、全国各地の山々に出かけていたそうである。
 東京の出版社から句集も出していた。震災前に二冊。これは、箕面市の自宅で、震災後に見せてもらったことがある。調べてみると、2004年にも一冊上梓していた。
 業だ。亡き夫から話を聞いたときも、そう思ったが、震災後も、由佳を手元に置きながら、二歳の孫娘を育てながら、吟行山歩きは続けていたのである。
 業だ。業を抱えて、この人は生きている。そんなふうに、思えてきた。



続く





 
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コメント 2

鮮線

由佳さんが、母のことを知ろうとするでしょう。
もう、しているでしょう。

by 鮮線 (2015-02-24 01:24) 

SYUPO

「サスペンス」になり切れないお父さんの表情に、事実の重みを感じました。
由佳さんの将来に幸あれと思います。
by SYUPO (2015-02-25 13:53) 

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