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神戸 1995.1.17 第6回

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 それは突然にきた。「由佳はウチの子です、絶対に渡しません!」という先方、亡き夫の母親の宣戦布告だった。
 突然と思ったのはこちらだけで、あちらとしてみれば、絶妙のタイミングで言い放ったのか、たまりにたまった感情が爆発したのか。そんなことさえ、我々には計り知れないほど、ノーテンキに楽観していた。「由佳はこちらで引き取ります」との提案に、「良いですよ、そうしましょう」といったんは答えた先方の言葉を、バカ正直にうのみにしていた。
 葬儀後、両親は由佳を連れて名古屋の実家に帰ったのだが、数週間たって、「もう少しいっしょにいたい」という先方の希望もあり、再度箕面市の家に連れて行った。しばらくしたら名古屋に返すという話で両親は納得し、由佳を置いて名古屋に戻る。それからしばらくして、先のセリフ「由佳はウチの子です、絶対に渡しません!」が出たのである。両親にしてみれば、それはまさに青天の霹靂で、母親は高校教師を辞める決意をし、息子と娘が出て行ったマンションを、これから二歳の孫娘が生活すべく改造している矢先のことだったのである。
 このときから、特に先方の母親の態度が一気に硬化した。硬化どころではない。人から鬼に変化したかと思われるほど、ものすごい形相で私たちに対した。
 ちなみに言うと、私は「鬼」という言葉を、このような文脈で使うことに反対である。それは、3・11以降、東北について学ぶことでさらに強まった。「鬼」とは、ヤマトの支配に抵抗し続けた原住民の、ヤマトの側からの想像力が生み出したある種の幻想だ。
 このときから先方の母親は、電話でも「ダメです。由佳はウチの子ですから」とぴしゃり言い放ち、一方的に切ってしまうし、箕面市まで会いに行けば、それこそ鬼の形相で門前払いを食らわせた。私も両親に付いていったが、あの顔で断固として追い払われては、なす術はなかった。
 それは、まさに子どもの頃から絵本などで見てきた「鬼」の顔であった。いや、絵本の鬼の方が、まだぜんぜんコミカルで、哀愁さえ帯びて見える。それに比べると、一度決めたらテコでも動かない、拒絶と排除の意志がはっきりと見て取れた。キッと睨みつけたまま、冷たい鉄仮面のように固まった表情を見て、息子と娘の違いはあれ、同じように腹を痛めた我が子を亡くした私の母親は、何を思ったのだろうか。
 先方の父親は、近江商人に出自を持つことが自慢の生粋の関西人だが、たいていは恐妻の意見に従うというタイプの夫だった。とはいえ、それは私の両親も同じなのだが、大学教員と高校教師VS実業の世界で生きて来た関西人と鬼の形相の母親では、最初から我が方に勝ち目はなかった。それなのに無謀にも勝負を挑んだのは、愛娘の「由佳を私の代りに育てて!」という遺志が、それとて幻想に違いなかったが、特に母親の脳裏から離れなかったからだろう。引っ越しをさせられなかった後悔が、父親にもあったのだろう。なんとしてでも由佳を引き取り、我が家で育てなければならない。その使命感が、先方の母親からの拒絶にあうたびに、少しずつ少しずつふくらみ始めた。


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 この年、1995年は、阪神淡路大震災の約二ヶ月後に、地下鉄サリン事件が起きている。オウム真理教をめぐる一連の騒動が始まったわけだが、同時にウィンドウズ95の登場やPHS電話サービスの開始など、社会状況が一気に変化していくメルクマールとなった年でもあった。バブルは過去のものとなり、長い不況の時代がやってきた。社会には、希望よりも、漠然とした不安が徐々に広がりつつあった。その延長線上に、2015年の現在がある。
 しかし、そんな時代背景など目の片隅で眺めるだけで、両親と私は、由佳奪還のため血眼になっていた。とうとう母親は三月末で退職し、由佳を迎え入れる姿勢と意志をよりいっそう固めた。桜が咲き、やがて散って、五月のゴールデンウィークに入る頃、両家のいざこざは、とうとう裁判で決着をつけることになる。由佳に対する親権を、両家のどちらが得るのが妥当かを、家庭裁判所に判断してもらうわけだが、その申し立て手続きは、当然ながらこちらから始めた。そのことも、先方の逆鱗に触れたようである。先方は、ハナから「諦めろ!」という態度であって、その根拠は、あくまでも私の姉は嫁として先方の一族に嫁いだのであるから、その娘由佳も先方の一族に属するのは当然であって、裁判で争う必要がなぜにあろうか、というものだった。
 家父長的家族制度を盾にとって一歩も譲らない構えだったのが、ならばどうして最初に、「いいですよ、そうしましょう」などと言ったのか。こちらとて腑に落ちない。しかし、「あんな状況で言われても。むしろ非常識ではないのか」と返されたら、ぐうの音も出ないのだった。母親の早すぎた先制攻撃が、かえってアダになってしまった。確かに言われてみればその通りで、私とて「この状況で言うべき話じゃないだろう」と思ったのだから、あとから思えば、最初の一歩から間違っていたのだ。こうして両親と私は、少しずつ、追い込まれていく。
 最後の手段として両親は、信頼できるスジからの紹介で、このテの裁判にめっぽう強いというベテランの老弁護士を紹介してもらうことになる。そして、それが決定打となった。最初から、そう神戸商船大学で夫婦の遺体の前で放った言葉から、この弁護士を信用し過ぎたことまで、様々な手を打ってきたのだが、それらがことごとく裏目に出ていたのである。しかし、それがすべて判明したのは、由佳が向うの家族として法的にも正式に引き取られ、先方から絶縁を言い渡されたときなのだから、私たちはただただ、闇雲に使命感にとらわれジタバタしていただけなのであった。やはり、喜劇なのである。他人から見れば。しかし、この頃から、私の父親も母親も、悲壮感漂う表情で、それでもなんとか由佳を我が手に、と願うようになった。そして、最後に掴んだ藁が、事件を引き起こす。


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 その弁護士の家に、私も含めて三人で相談に行った。弁護士を紹介をしてくれたKさんも同席した。Kさんと同様、かなり高齢の弁護士だったと記憶する。来年還暦を迎える父親より、ひとまわりは上だろうか。だが、その分経験も積んでいるはずだと、私たちは希望的に解釈した。何よりKさんは、名古屋の国立大学の名誉教授で、両親がすっかり信用しきっていた人物であった。
 老弁護士の家は、古い平屋建ての日本家屋だった。法律家というより、作家か文学研究者の家のようだった。思わず、映画みたいに和服なんぞの着流しで、この屋の主である老弁護士が現れるかと思ったが、別にそんなこともなく、長く小学校の校長か郵便局長を務めて引退したかのような小柄な好々爺が、着古した濃紺の背広姿で我々の前に静かに座った。
 すでに詳細情報は得ているらしく、簡単な挨拶の後、つぶやくような名古屋弁で老弁護士は言った。「状況は、キビしいですなあ。とにかく、お宅らあが、不利であるとゆうことは、否めませんなあ」と。その理由として、現代の家族制度では、両親が亡くなった場合、父側の親に親権が委ねられることが多いこと。震災から四か月ほどが経過し、約二週間を名古屋のマンションで過ごした以外は、先方の箕面市の父方の両親の家で暮らしていること。などをあげた。
 前者の理由はとうてい納得出来ないが、そんなものなのかという思いもあった。長男として大事大事で育った父親も、その長男である私も、先方の家の長男坊であった亡き夫の妻として、名字も変わってしまっている以上、やはり勝ち目はないのかという諦めが脳裏をよぎり始める。多少リベラルな面もある父親は、家父長的家族制度に反対の意見を持ってはいるが、子どもの頃からその制度の恩恵を少なからず受けてきたのもまた、事実なのであった。そしてそれは、私にも当てはまる。
 しかし、後者の理由が当初、よくわからなかった。老弁護士は、時間が大事なのだと言う。孫娘と過ごした時間の長さが。「あんたがたは、葬儀後、二週間だけ、いっしょにおられたぁちゅうことですわな。ほんだでそれを、ちょこっとでも、なごうすりゃええ、ちゅうこってすわ」と、これまた意味不明なことを言う。
 由佳はもう、長いことあちらの家に幽閉されているようなもので、私たちは会うことはおろか、電話口にさえ、出させてもらえないのだ。「どういうことですか?」というこちらの質問に、「もしかぁすると、そうゆうのんが分かっとって、孫娘さんをちょこっとでも長く、家にとどめておきゃあええ、思うとるのかも、知れませんな」と、もっと意味不明なことを言い出した。「どうすれば、良いのですか?」と聞くと、「それは……。なんとも、答えられんでかんわ」と、不意に立ち上がり、ここまで言っても分からんのかと、そのとき初めて老獪な表情をちらりと見せ、隣室へと消えてしまった。
 このとき、Kさんも老弁護士の後を追って、隣室へと消えた。私たちは、キツネに抓まれたような表情で、二人が戻って来るのを待っていたと思う。正直、何が言いたいのか、さっぱり見当がつかなかった。
 十分ほど経って、Kさんだけが戻ってくると、我々の前に座り直して、重々しく口火を切った。「その……、私としても、言いにくいことなんですが……」でいったん言葉を飲み込み、目の前の冷たくなったお茶でも飲み干したかどうかまで、正直覚えていないが、そんな空気が流れていたのは確かだ。「とにかく、先生(老弁護士のこと。この場面、おかしいことに、私以外全員が『先生』であった)は、孫娘さんとなるべく、いっしょに過ごす時間を、増やさにゃあアカン、そう言われるんですわ」と、Kさんも、タジタジになっていた。名誉教授の私に、そこまで言わせんと、分からんのきゃあも……。という面持ちで、黙って座椅子に背をもたせかけ、Kさんは天井を仰いだ。
 つまりこういうことらしいのである。今回の裁判は、総合的に考えて、また前例から見ても、勝てる見込みが薄い。このままいけば、親権はあちらの両親に移るだろう。もし、少しでも勝てる要素を増やすとするならば、なんとかして、孫娘を名古屋のマンションに連れて来なさい。そして、いっしょに過ごし生活する時間をなるべく長くしなさい。それが、既成事実として残ります。とまあ、老弁護士の主張は以上のようなものであった。
 もちろん、老弁護士は、箕面市の両親が由佳に会わそうとしないことも、電話さえ拒否していることも知っているのであって、それでも上記のような既成事実を作るとなれば、もはや強制的に奪還するしか手立てはないことも、承知の上で言っているのである。しかし、それは法的にもギリギリの選択であって、老弁護士がそれを直接指示するわけにはいかない。名誉教授であるKさんとて同じである。で、老弁護士は隣室に消え、Kさんは、ごにょごにょと、名古屋弁で口ごもってるのであった。こういうときの名古屋弁は非常に便利で、「んだで、分かったってちょ……」などと、うってつけの曖昧表現がいくらでもあった。
 しかし、残る二人の「先生」、ひとりは退職して「元先生」だったが、とにかく世事にこなれない両親二人には、まだよく事態が呑みこめていないようだった。ようやく私がピンときて、「つまり、由佳を誘拐せよ、ということですね」と発した言葉に、両親の顔が青ざめた。なんと! それは、犯罪ではないか……。
「そーんなこと、言っとらせんて」と、慌ててKさんは否定したが、「誘拐」と発した言葉を否定しただけで、行為としては同じことを示唆しているのであった。それしか、この裁判に勝てる見込みはない、と。亡くなった愛娘の遺志を継ぐ方法は、それしか残されていない、と。
 ようやく事態を察した父親と母親が、私は次の言葉を聞いてのけぞるほど驚いたのだが、青ざめた顔のまま、「分かりました、やります」と、重い決意を表明した。「それしかないのなら、やります」と。
 
 この何日か後に、私たち三人は京都で落ち合い、箕面市に車で向かうのである。
 横浜から、この年何度目の新幹線だったろうか。両親は名古屋からワゴン車でやって来た。確か京都駅の八条側、新都ホテルのロビーで待ち合わせたはずだ。場所は正確には覚えていないが、父親の、青ざめてほとんど土気色に変わってしまった顔だけは、今でも忘れられない。それに比べると、母親、つまり女の方が度胸が据わっているのか、緊張した面持ちではあるものの、これから遂行する正義のミッションを前に、いささか高揚しているようにも見えた。
 しかし、いずれにしろ、私と違って超がつくほど真面目な、先生一筋の二人の人生に、このような場面が訪れようとは思いもしなかったのである。事前に電話で何度もやり取りした作戦を、車中で確認したりして気を紛らわせていたが、箕面市に近づくにつれて、極度の緊張からか、押し黙ってしまった。むべなるかな、である。だが、ハンドルを握る私に、「引き返そう」という言葉は、まったく浮かんでは来なかった。私もまた、同じように突き動かされていたのだ。
 そしてついに、私たちはその「現場」に到着した。
 それは、由佳が最近預けられることになった、民間の保育園だった。




続く


 
  

 




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コメント 2

せんせん

「人間喜劇」の底にひろがる、
子を失った親たちの悲哀の海が見えて、感心。
by せんせん (2015-02-11 16:16) 

岡坊

やっぱりもらい泣きをしてしまうのです。
同時に、ご両親を亡くした由佳さんの瞳は、
20年をどんなふうにみてきたのだろう思うと、
また、ほろり。
年をとると、涙もろくなっていけません。
by 岡坊 (2015-02-12 08:51) 

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