神戸 1995.1.17 第8回
今、私がこの母上について知る手がかりは、これらの句集以外なにもない。この人物について知りたくても、周囲の知人や親戚に問い合わせることは不可能だし、その手立てもない。だが、こうして文章を書いているうちに、どうしてもこの母上について知りたくなった。
業を抱えているのは、もしかしたら我々親子も同じなのかもしれない。何かを書かなければ生きてはいけないような人間は、大なり小なり、似たようなものだ。そんなふうに思ってもみた。句集をひも解けば、この人の心の内を知る、なにかがつかめるのではないか。
それで、わざわざ国会図書館まで出かけて行って、三冊の句集を閲覧することにした。句集は、私家版ではなかったが、アマゾンでも扱いがなく、公立図書館にも入っていなかったのである。
しかし……。
そこには、私の目をみはるような句は、たった一句をのぞいて、皆無だった。一読して、なんの注意も引かなかった。文学的な価値がないとか、そういう上から評するようなことを言いたいのではない。私は俳句についてはド素人だし、評価する向きも多いからこそ、こうして三冊の句集となって残っているのだろう。
だが、たった一句だけは猛烈に興味を引いた。
それは三冊目のタイトルにもなっていた。
『雛の家』という。
震災の遺児きて雛の家となる
これがその句。良い句だと思う。平凡な句なのかもしれないが、私は好きだ。
老齢にさしかかった夫婦の家に、震災で亡くなった息子の遺児がやって来た。その悲しみと悦びが「雛の家」という言葉に込められている。雛鳥のようにかわいらしい遺児。雄か雌かも分からないような幼さ。それが、我々から奪い取り、我々の存在を消し去られた孫娘だったとしても、私はこの句が好きだ。
実は、このタイトルについては、アマゾンで確認済みだった。だから、平成16年(2004年)に出されたこの句集について、国会図書館で手にする前から、なんとなく、孫娘との新しい生活を綴った句が並んでいるのだろうと思っていた。期待してもいた。だからこそ、わざわざ国会図書館まで出かけて行ったのである。その期待は、たった一句を除いて、見事に外れることになるのだが。
私は、都内なら、天気が良い日はたいてい自転車で移動する。二月の半ばの日曜日。江東区の端っこ隅田川沿いに住んでいるので、まずは大川を渡り、神田から皇居前に出た。皇居沿いに自転車を走らせる。二月にしては暖かい日曜日だった。皇居マラソンの人びとをすり抜けて三宅坂を登り、テロ対策で厳重警備の国会を尻目に、国会図書館に入った。
何十台と並んだパソコンで手続きを済ませ、三十分ほど待たされた後、三冊の句集を手に取った。『雛の家』以外の二冊は、震災直後の箕面市の家でパラパラと手に取ったことは先にも書いたたが、ほとんど記憶にない。
その二冊は、昭和61年(1986年)、平成5年(1993年)にそれぞれ上梓されていた。巻末に吟行年譜が付されていて、どれだけの山々を山岳修験僧のように歩き回ったかが、ひとめで分かるようになっていた。おそらく息子たちが成人したからか、昭和が終わり平成に入るころから、海外への吟行旅行も増えている。
2004年刊行の『雛の家』には、震災前の平成6年から約10年間の句が、年ごとに並べられていた。この句集のみ、巻末の年譜はなく、そのかわり、句の並びがそのまま年譜となり、句の右肩につけられた小さな文字で、「穂高岳」とか「葛城山」とか「アンコールワット」など、句を詠んだ吟行地が分かるようになっていた。
私は少し緊張しながら、阪神淡路大震災の年、平成7年、1995年を開いてみる。
年明けの1月は、次の句から始まっていた。
六甲山 鏡餅山清水にも供へられ
尾根越ゆるときに吹雪の煌めける
そしてその次の句が、
※ 震災の遺児きて雛の家となる
だった。
「※」なのは、これが吟行地で詠まれた句ではないことを示している。そして、この句集の全句の内、この句のみ「※」で、あとはすべて地名だった。つまり、作者にとってこれは、例外的な句なのだ。
以下、次のように続く。
熊野古道 小辺路 大寒も金剛峯寺明け放つ
重畳の雪の山越す熊野詣
蒲公英の白き絮(わた)とぶ大斎原(おおゆのはら)
菅島 しろんご祭神に雄雌の鮑供え
海女被る手拭心経染め抜かれ
穂高岳 穂高小屋万年雪の寄合に
常濡れの一枚巖も登山道
御幣山残雪も亦幣をなす
富士山 御来光いま白金の大円鏡
開耶姫(さくやひめ)澄みたる五湖を水鏡
溶岩の蓮華八峰雪を待つ
不思議である。摩訶不思議である。わけが分からない。せっかく『雛の家』と銘打ってあるのに、可愛いヒナは一度だけ顔を見せただけで、あとはすべて山岳を中心とした吟行句なのだ。それは、最後の年、平成16年(2004年)までずっと変わらなかった。
雛の句の次に、「熊野古道 小辺路」の句が三つ。「大寒」とある以上、1月20日頃のことなのか。いや、さすがにそれはないだろう。立春までの期間を大寒と呼ぶこともあるらしいので、だとすると、1月後半ということか。17日に震災、22日23日の週末に通夜と葬儀を終え、もう熊野の山に入っていったのか。
国会図書館の中はポカポカとあたたかく、日曜日なのに、いや日曜日だからか、意外に大勢の人々が来館していた。それぞれ席に着いて、各々に必要な書物や雑誌類を手に取って読みふけっている。
ここに来なければ手に取れない、書籍や雑誌、それに古い新聞など。いったい何をそれほどまでして調べているのか。調べなければならないのか。句集とにらめっこしている自分は棚に上げて、頭を上げ、しばらくボーっと人間観察をしてしまう。
若い男女は卒論のためだろうが、あのお爺さんが読みふけっているぶ厚い書物はなんだろう。向うには、図書館とは縁遠そうな(失礼!)茶髪で皮ジャンの男もいる。その男が持っている本は遠くて確認出来なかったが、さっき通った雑誌の受け取りカウンターの上には、昔のエロ本がどんと積まれていた。あんなものでも、ここには見に来る人がいる。
もう一度、句集『雛の家』を開く。私は、何を期待していただろう。よくは分からないが、なんだか裏切られた気がしてきた。やはりそうかという怒りに似た感情が、沸々とこみ上げてもきた。
震災後、私と両親は、娘の遺稿を拾い集め、遺児となった孫娘を育て上げるための環境を整え、文字通り東奔西走していた。ところが……。最終的には「雛」を手に入れたあんたは、熊野に菅島に穂高ですか! 富士登山ですか! なにがサクヤヒメだ!!
結局、何部かをコピーして、その日は持ち帰った。その夜、自宅でもう一度読んでみたが、漢語の多い句の冷たい字面に、作者の心内をのぞきこむことは出来なかった。たった一句、「震災の遺児きて雛の家となる」、以外は。
続く
2015-03-01 13:50
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コメント(1)
死んだ息子追悼の句もないのですか。
by sen (2015-03-02 16:43)