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船戸与一『満州国演義』を読む その2

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4月23日木曜日、船戸与一著『満州国演義』第9巻を読了しました。(訳あって、ネットに接続できなかったので、ブログのアップが遅くなってしまいました……)

その日の朝刊で、作家の訃報を新聞で読んだのです。前日の夕刊は、作家の日本ミステリー大賞受賞を報じていました。入院中の病院から駆け付けた車イス姿の写真つきで。
全9巻の大作は、10年の歳月をかけて書かれたそうです。短いあとがきには、「膨大な量の文献との格闘が不可避だった」とありました。そして、次のような言葉が印象的でした。

 《書きながら痛感させられたのは小説の進行とともに諸資料のなかから牧歌性が次々と消滅していくことだった。理由ははっきりしている。戦争の形態が変わっていったのだ。まず、兵器がちがう。次に、交通手段がちがって来る。それは戦術そのものを変化させた。点対点は線対線に、線対線は面対面に。最後は空間対空間が戦況を決定するのだ。航空機による無差別爆撃が常態となったとき、牧歌性が存する余地はもはやどこにもない。それは近代戦の宿命であり、浪漫主義のつけ入る隙のないものだった。》

近代戦による徹底的な敗戦。
それはロマンチックに美化できるような現実ではなく、破壊と殺戮、凌辱と強奪の地獄絵図です。昭和19年生まれの作家は、直接的な戦争の記憶はないと言います。それでも資料を読み込んでいくうちに、圧倒的な現実を体験した。戦後生まれだから、体験していないからといって、人は想像力によって現実を後追い体験できる。それなのに、最近はどうなってるんだ。どうしてこうもイージーな浪漫主義で、あの戦争を思い浮かべるのだ。そのように、死期の迫った作家は怒っている。そう私には思えます。

70年前の徹底的な敗戦で終わる明治維新以降の大日本帝国は、戦争に次ぐ戦争で明け暮れた国家でした。小説の第9巻で、その端緒は吉田松陰の『幽囚録』にあると書かれています。へえ、と思いました。伝馬町の獄に繋がれたときに、松陰が遺書としてしたためた書です。その中に、こんな一節がある。植民地主義を抱えて迫って来る欧米列強にいかに対抗するか。その問いに対する松陰の解答です。

 《いま急に武備を修め、艦ほぼ備わり砲ほぼ足らば、すなわちよろしく蝦夷を開墾して諸侯を封建し、隙に乗じて、カムチャッカ・オロッコを奪い、琉球を諭し、朝覲(ちょうきん)会同すること内諸侯と比(ひと)しからしめ、朝鮮を責めて質を納れ貢を奉ること古(いにし)えのごとくならしめ、北は満州の地を割き、南は台湾・ルソンの諸島を収め、漸に進取の勢いを示すべし》

ほぼ、松陰が示した処方箋の通りに歴史は動いた。
明治の初期は、薩長閥が権力を独占していましたから、松陰先生の影響力は大、だったのでしょうか。


続く



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コメント 2

1001

わたしよりも6つも若かったのに。
いくつかの長編を楽しみました。
合掌
by 1001 (2015-04-27 18:03) 

wakaken

たった6つでも、戦争の記憶はずいぶん違うのでしょうね。
by wakaken (2015-04-28 07:24) 

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