SSブログ

神戸 1995.1.17 第5回

なるみやますみ.jpg


 夫婦の遺児、二歳の娘は、近所のママ友が引き取り、その人の実家である六甲山のふもとの公営住宅に預けられていた。それが17日の午後のことで、そのことは18日に現場に到着した我々にも伝えられたが、その日に迎えに行くことは出来ず、19日になってようやく引き取りに行くことになった。
 その引き取り役は私が引き受けた。父親のワゴン車を運転し、母親といっしょに箕面市から向かったのだのだが、その時のことも、忘れがたい印象を残すことになる。
 まず、魚崎駅近くの倒壊現場に行き、ママ友のマンションを探した。驚いたことに、そのマンションは倒壊現場から徒歩1分くらいのごくごく近所で、少し外壁などに亀裂が入っていたが、なんの問題もなく建っていた。はぁ、建物の新旧で、ここまで運命が分かれるものなのかと、チャイムの音で玄関まで出て来てくれたママ友とその家族の元気な顔を見ながら、ため息の出る思いがしたものだ。私でさえそうなのだから、私の母親などはもっともっと強く、そう思ったに違いない。
 引っ越しさえかなっていたら、目の前のママ友の家族のように、たとえ家の中がぐちゃぐちゃになろうとも、生きて生活を続けることが出来たのだから。二歳の娘を膝に座らせながら、大好きな童話を、書き続けることが出来たのだから。愛する夫を、毎朝「行ってらっしゃい!」と、笑顔で送り出すことが出来たのだから。
 ママ友を助手席に乗せて案内を乞い、急流住吉川沿いを流れとは反対にぐんぐん登っていくような感じで車を走らせた。事実、阪神線、JR、阪急と線路を越えるたびに、標高があがっていくわけで、阪急の線路を越えて左に折れ、神戸大近くの高級住宅街に入ったとたん風景が一変したのには驚いた。
 電柱が倒れたりガレキが占領したりで走れない道も多い中、ここでもあみだくじのようにジグザグ走行となるのだが、阪急線より上の道に入ると、もはや被災地ではないのだった。いや、家具が倒れたり水道が止まったり、外から見ただけでは分からない被害もあったのだろうが、一見すると何ごともなかったかのような日常の平穏な住宅街が広がっていた。災害格差。そんな言葉があるのかどうか知らないが、建物の新旧と住んでいる土地、つまり時間と空間の違いで、生死を分かつほどの差異が、目に見えてハッキリと生じることもこのとき知った。
 
 二歳の遺児とは、六甲山へと登る六甲ケーブル駅近くの公営住宅で再会した。エレベーターもない5階建ての古めかしい団地で、仮にこれが東灘区に建っていたら無事では済まなかっただろう。標高の高い山腹にあったからこそ、おそらく昭和30年代の建物だったはずだが、ほぼ無傷で建っていた。
 かさねがさねイヤらしい感想だが、そう思わずにはいられなかった。母親もまた、そうだっただろう。そして自責の念が生じる。後悔は先に立たないが、ならばその悔いを帳消しにする行動を取るしかない。それは、我が娘の遺した由佳を、我が手で育て上げること。母親とて、後悔と悲しみを乗り越えるには、その使命感にすがる以外になかったのかもしれない。
 由佳は、二晩面倒を見てくれたママ友の母親によると、少し寝ては大泣きし、寝ては大泣きすることの繰り返しだったそうだ。いきなり家が崩れ落ち、小さな空間で身を縮めながら、父も母もだんだんと冷たくなっていく冬の寒い朝を迎えてから、まだ2日しか経っていないのだ。この小さな幼い心に、いったいどんな傷が残されてしまったのか。私と母親は、帰りの車の中、母親に抱かれながらようやく眠りに落ちた由佳を見ながら、そのことを心の中で反芻するのだが、どんなに考えてみても、それは私たちの想像の範疇を越えていた。それだけに、母親も、箕面市の夫の実家で由佳と再会した私の父親も、不憫な孫をその手に抱いて涙した。
 そして、涙とともに、決心するのである。こうして、このときから、あの「事件」に向って、我々の時間はまっしぐらに突き進んでいく。そして、最悪の結果を導いてしまうのだが、スポーツゲームの敗北を後から分析してある程度は納得できる論を立てることが出来るようには、私たち一家の敗北は説明できない。なぜそうなってしまったのか、さっぱりわけがわからないのである。
 まったくもって愚かである。死者に申し訳が立たない。それは勝者の側の家族もそう思っているはずだった。夫婦そろって亡くなった以上、一人娘を両家が同様に愛情を注いで育てるのがベストな選択であることは、誰にでも分かる。それがそうならなかった。ならなかった以上、勝者であっても、我々と同じような死者に対する申し訳なさがあってもよかった。事実、向うの家族には、そう見受けられる言動もあるにはあったのだ。ただ一人の重要なプレーヤーをのぞいては。


51KK27P7M3L__SY344_BO1,204,203,200_.jpg


 こうして、その週末、通夜と葬儀を迎えることになる。私は、夫の実弟と、夫の友人たちと共に、遺体の前で酒を飲んで一晩を明かした。学生時代の夫の爆笑譚で大笑いしながら、棺の前で遺体をかき抱くようにして大粒の涙を流す男同士の友情に、感動さえした。同時に、こんな良い好男子と、なぜもう少し長く結婚生活を過ごさせてくれなかったのかと、姉の不運を恨んだ。
 忘れられないのは、実は通夜でも葬儀でもなかった。葬儀が終わり、焼き場に向かう直前、参列の人々に別れの挨拶をする場面がある。棺を乗せた二台の車の前に遺族が立って、大勢の参列者に喪主がマイクで謝辞を述べたあと、あのいかにもな感じで葬儀業者の「それではみなさま、お別れでございます」などというアナウンスが入る。それでいっせいに皆が泣き出すのだが、若い二人との永遠の別れということで、その時は本当に大勢の人々のすすり泣く声が、冬の晴れた空に届けと言わんばかりに響いた。
 私は、車の前で写真を掲げ立たされていたからか、その時はそれほどの悲しみを覚えなかった。棺と同じ車に乗り込み、焼き場に着いて、窯の前で担当者の淡々とした説明を受けながら、棺が、つまり姉の遺体が、姉の身体が、ごうごうと燃える窯の中に消えていこうとしたときだった。それれは突然、腹の中からこみ上げるようにして私を襲った。
 これでほんとうに姉と別れる。永遠に会えない。それは、18日に遺体と対面した時に感じたはずなのだが、そうではなかった。たとえ冷たくなっていようとも、もはや動くことも話すこともなかったとしても、姉の身体がそこにある限り、永遠の別れではなかったのだ。
 疲れていたからだろうか。二日連続の徹夜に続き、寝不足の中で、あちこち飛び回った。通夜では痛飲し、ほとんど寝ないで葬儀を迎えた。私の精神は、極度に張りつめていたのかもしれない。だが、今もって私は、あのとき、姉の肉体が失われてしまうことが、ほとんど自分の身体がえぐり取られるような痛みと悲しみとして私を襲ったことを、忘れることができない。私は、棺が窯にすべるように吸い込まれるまで、我を忘れて泣きじゃくった。できれば止めたかった。淡々と作業を遂行する担当者の手をつかまえ、ちょっと待ってくれと言いたかった。
 別段、姉が容姿の美しい女性だったわけではない。幼少の頃から、べたべたと姉に甘えたこともあまりない。姉の匂いとか、髪の手触りとか、ほとんど覚えていない。なのにどうしてだろう。不思議だった。
 少し後になって、それは時間だと思うようになる。姉と共有したたくさんの時間。姉としか共有していない、幼い頃の思い出。それが、姉の肉体の消滅と共に、永遠に失われるのだ。
 姉が生きている限り、私たちの共有フォルダから記憶を引っ張り出し、ひとつひとつのファイルを開いて凍結していた時間を温めなおし、確認しあう作業が可能になる。それがもはやかなわなくなった。一人っ子はみなそうなのかもしれないが、私はずっと長い間、他人と、特に女性と時間を共有することで、孤独からの逃避行を繰り返してきたことに気が付いた。
 ずっと姉が抱えていた「孤独」が、このとき初めて、私の中に芽生えた。
 と同時に、横浜に戻り大学に通いながら、マックス・ウェーバーやマルクス、大塚久雄や内田義彦を読む以上の熱心さで、高橋和巳や太宰治の小説をむさぼるようになる。『プロ倫』から『憂鬱なる党派』へ。『資本論の世界』から『人間失格』へ。
 遅れてやってきた文学青年は、滑稽なだけの存在だったはずだが、当の本人にその自覚が生まれるのはまだまだ先の話で、無自覚な滑稽さは、喜劇ではなく悲劇だ。私はそれを、まったく文脈は違ったものの映画のセリフで聞いたとき、背筋が凍るほど愕然とした。それは自分のこととして言われている言葉に聞こえたのだった。
「This is not a comedy,but a tragedy.(喜劇なんかじゃない、悲劇だよ)」
 デイビッド・ヘルフゴットというピアニストの生涯を題材にした映画『シャイン』のラストにちかいシーンでのセリフだった。ラフマニノフのピアノ協奏曲第三番が、効果的に使われていた。私には印象深い映画だ。
 でも、こんな文章を書いているということは、それはまだ続いているわけで、もはや自分が演じているのが喜劇なのか悲劇なのか、これまたさっぱり自分では分からない。 
 私たち一家がこれから演じるドタバタコメディーは、当事者たちにとってみれば、間違いなく悲劇だ。だが、他人から見えればコメディー以外の何ものでもない。いよいよ次回、それを書くが、大いに笑ってもらって構わない。


続く



 


nice!(0)  コメント(1) 

神戸 1995.1.17 続きの続きのそのまた続き

h5271-197903.jpg


 こうして、私の震災ドキュメントは、17日の夜勤明け朝9時頃に始まり、18日の夜、神戸商船大学から夫婦の遺体を運び出すまでのおよそ36時間で、一応の幕を閉じる。
 これ以降、一度だけ遺品を掘り出しに魚崎の倒壊現場に行ったが、あとは1月17日の記念日に、何度か花を手向けに訪れたのみで、神戸という街からは縁が切れてしまった。だから私は、17日の夜の神戸を歌った『満月の夕(ゆうべ)』(作詞・中川敬、ソウル・フラワー・ユニオン)のような情景を、リアルに思い浮かべることは出来ないし、その後の神戸の復興支援活動等にもまったくコミットメントしなかった。
 震災から5年後、縁あって東京に事務局を置く国際協力系NGOの東京事務所スタッフとして採用されたが、ここのメンバーは、神戸の復興支援ボランティアに深く関わった人が多かった。日本のボランティア元年、などと言われた活動のメインストリームで活躍した人たちで、今年2015年も、東京で大きな記念イベントを開催しているはずだ。そういう人たちに対しても、私は、私の経験した神戸の話を、違和感なしに話すことが出来なかった。それは、まったくもって自分の問題であって、彼らに文句が言いたいわけでも、批判したいわけでも何でもない。
 私は、神戸震災に関して徹頭徹尾、個人的な関わりしか持てなかったわけだが、それには、これから書こうとしている震災後の「事件」にも、大きく影響されているからだと思う。書こうか書くまいか迷ったが、どうせ備忘録としてここまで書いてきたのだ。書いてしまおう。
 とはいえ、そこにたどりつくには、まだまだたくさんの伏線がある。後日譚にしては、長い記述になってしまいそうだ。

 18日の夜遅くになってようやく業者の手配が済み、いったん夫婦の遺体は、夫の実家である大阪府箕面市の一軒家に運び入れた。長男だった夫を亡くしたご両親は、ショックも悲しみも大きく深かっただろう。しかし、実業の世界に長く身を置いた夫の父親は、こういうときこそ奮い立つのかもしれない。葬儀業者やお寺などと、素早くかつ粘り強く交渉し、その週末の土日に通夜と葬儀を行う段取りを、とんとん拍子に決めていった。箕面市の近隣の都市神戸で、一度に数千人が亡くなっているわけで、業者や寺は大忙しのはずだ。よく、最高の日取りと条件で段取りがついたものと、感心せざるをえない。
 大学教員の私の父親や、高校で非常勤講師として古文などを教えている母親にとって、このような世事に関する事柄は、まったくもって疎い分野である。先方の父親もそれを承知の上で、一応形式的には、逐一同意を求めるという手順を踏んでいたが、下手な関西弁で(父親は学生時代、京都で過ごした)「任せますわ……」と、か細く応えるのみの父親にしびれを切らしたか、「ほな、そうさせてもらいます!」と、一存ですべてを決めていった。結果的には、それでよかったわけだ。そうでなければ物事が進まないほど、世間も人心も混乱していた。
 私の父親母親は、英文学や国語教師の経験しかない。しかなかろうが、別に何の問題もないけれども、これから迎える人生最大の難局を、首尾よく乗り切るには少々生臭い経験が足りなかったと、息子の私から批評されるのもシャクだろうが、確かにそういう面はあった。
 母親は、すでに神戸商船大学の体育館で、娘の遺体を前にして決心したらしい。すぐさま私に耳打ちし、「由佳(仮名)はうちが引き取るからね、わかったね」とささやいた。そんなこと、ここでこの時期に言うことじゃないだろ!? と思ったが、母親とすれば、娘である私の姉の遺体が、遺志として「私の代りに娘を育てて!」と、無言で言っているように聞こえたのだから、即座に実行に移すことに、なんの問題もなかろうというわけだった。
 プロテスタントの両親に育てられた母親は、今も敬虔なキリスト教徒である。紫式部日記や源氏物語をこよなく愛するプロテスタント。共通するのは、テキスト絶対主義だろうか。それが影響しているのかどうかわからないが、啓示として母親にもたらされた言葉には、絶対的な立場で従い、実行に移す。この場合、娘の遺言「娘を育てて!」によって、俄然、母親は悲嘆のどん底から立ち上がったわけだが、どんな場面にしろ、「絶対」の言葉を掲げたアクションが成功を収めないのは、わかりきったことではあったのに、その周囲にいる人間もまた、知らず知らず巻き込まれてしまうのはどうした訳だろう。
 かく語る私も、言葉の強い妻に従うばかりの父親も、すっかりその渦中にあって、使命感に浸りきっていた。それは、娘の遺志によって生じた「由佳を我が家で育てる」というミッションであった。実際、遺体は何も語っていないのだから、それは幻想から生じたミッションなのだが、イラク戦争がそうであったように、おろかな結末を迎えるまで、それはとどまることなく進行するのだ。それを、当事者である私がここに記すのは、赤恥をさらすことでしかないか。

 18日の夜に戻る。夫の両親の実家で、すでにその夜から攻防戦は始まっていた。葬儀関連は男同士だったが、こちらは女の闘いである。まず、私の母親から先制の言葉が出た。「由佳はウチで引き取って育てますね、娘がそう言っている気がしてならないのです。仕事も辞めます」と、単刀直入に切り出した。反論は許さぬ、強い態度でのぞんだ。一見すると、タフネゴシエーターだが、実を言うと、そうではないだろう。是か非かで迫ると、どちらに転んでも関係は悪化する。まして、非に転じたたときは、一戦交えなければならない。ならばネゴ、交渉の必要など初めからないではないか。
 このとき、相手が何を考えていたのか、今もって分からない。ただ、意外にもすんなり「良いですよ、そうしましょう」と、そのときは折れてみせた。態度が急変したのは、葬儀が終わってからだったろうか。一転して「由佳はウチの子です。絶対に渡しません!」と、戦闘モードになった。
 こうして、両家の闘いが本格的に始まるのだが、夫婦が命を投げ出して二歳の娘の命を奇蹟的につないだことと、この愚かな生者たちの闘いと、どう関連づけて考えれば良いのだろう。亡者は、このことを、どのように見ているのだろう。申し訳ないと、空に向かってこうべを垂れるしかないが、それはずっと後になって結果が確定してしまってからのことであって、何度も言うが、使命感に浸りきっているそのときの私たちは、ただ血眼になって、ひとつの正義、娘の遺志を継ぐという幻想に基づいて、遮二無二行動していた。

 このことばかり書いていると、自分でもいい加減げんなりするので、この間に起きたもうひとつの些細なエピソードをはさんでおく。
 それは、遺品を掘り出しに、父親といっしょに魚崎駅近くの倒壊現場に行った時のこと。17日か火曜日、18日が水曜日だったから、おそらく19日か20日のことだったと思う。私は、土日の葬儀が終わると、横浜に帰らねばならない。父親にも仕事がある。それに、姉の遺品として何よりも大事だったのは、この数年で書き溜めた原稿用紙の束だった。雨が降ると、それらがダメになってしまう。それで、母親のみ夫婦の遺体のそばに残し、急ぎ現場にかけつけたのだった。
 結局、その倒壊現場のガレキの中から、段ボールひと箱ぶんの原稿用紙の束を掘り出したのは、父親だった。私は、その日のみで、葬儀の後帰ってしまったからだが、父親はその後も、仕事の合間をぬって現場に通ったらしい。生前の娘との会話の中で、どれくらいの創作がなされていたか、ある程度把握していたからだ。私と行った日に見つかったぶんでは、とうてい足りないと、父親には分かっていた。母親にも分かっていた。
 こうして、結果的には、われわれの手元にテキスト(原稿用紙)が残り、それは遺稿童話集として出版された。そして、先方の元には、二歳の遺児が残るという、皮肉な結果になったのだった。
 だが、それにはまだひと山、ふた山、書かねばならない。しんどい作業だ。
 
 今回は、魚崎の倒壊現場のことを数年前に書いた文章があったので、それを転載して終わりにする。

517YhXaydyL__AA160_.jpg

 
 
埃だらけの『ゴーシュ』


 今はすっかり読書好きになった、私の部屋の本棚には、たくさんの本が並んでいる。
 静かに背表紙を見せているもの言わぬ本たちは、ひとつひとつ、個性豊かな表情を私に見せてくれる。古本、新刊本、学術書、文学書、個人全集、新書、文庫本。それぞれにそれぞれの思い出がある。
 そんな本たちの中に、砂埃を被ってボロボロになった『セロ弾きのゴーシュ』という童話絵本がある。そっと抜き出して開くと、背表紙や裏表紙の余白に、幼い私が描いた落書きや自分の名前がにじみ、一気に私を子どもの頃に連れ戻してくれる。
 幼少時代は、さほど読書をしなかった。外で泥だらけになって遊ぶことに忙しかったからだ。だが、年子の姉は正反対で、部屋に閉じこもって本ばかり読んでいた。それで、時たま雨などで外に出られなくなると、姉の隣に寝転んで、自分も本読みの仲間入りをした。
 姉は宮沢賢治が好きだった。なかでも『セロ弾きのゴーシュ』がお気に入りで、何度も何度も繰り返し読んでいた。私に読み聞かせしてくれたこともあった。人付き合いの下手な主人公ゴーシュの孤独や、動物たちとの愉快な交流に、自分の閉じこもりがちな日々を重ねていたのだと思う。
 姉には少しのんびりしたところがあって、何かと効率よく、調和を乱さず行動することを要求される学校生活で、かなり浮き上がっていた。いじめにもあっていたようだった。そんな姉の唯一のよりどころが本の世界であり、とりわけ『ゴーシュ』なのだった。
 そんな大切な絵本を、どうして私にプレゼントしようとしたのか、もはや記憶にない。私の誕生日かクリスマスだったろうか。
 姉は本をとても大事に扱うので、何度読み返しても、両親から贈られた時と変わらない美しい絵本に、私はさっそく名前を書き込み、落書きをした。それを姉はとがめもせず、それがあなたの絵本への愛情なのね、と言わんばかりにニコニコと微笑んでいた。事実、私も『ゴーシュ』が大好きになり、茂田井武の描いた挿絵を、スケッチ帳に絵の具で模写して遊んだりした。その隣で姉は、すでに自作の物語を綴り始めていた。
 その絵本『ゴーシュ』と久しぶりに再会したのは、神戸の震災で倒壊した姉の家の瓦礫の山をほじくり返していたときだ。神戸で新婚家庭を持った姉は、三十歳になったばかりで、夫と共に帰らぬ人となっていた。
 夫婦の通夜と葬式の前に、姉の遺品を掘り出すため私は神戸の被災地に通った。瓦礫の山から出てきたのは、たくさんの小説と、子どもの頃に本棚に並んでいた、見覚えのある童話や絵本だった。姉が結婚してからもせっせと書き溜めていた童話の原稿もあった。
 その中に、砂埃にまみれヨレヨレになった『ゴーシュ』があった。それを拾い上げたとき、私は思わず声を上げ、汚れた表紙をそっと開いた。冬の夕暮れの薄明りで目を凝らすと、ぼんやりとにじんでもすぐに分かる、拙い字で書かれた私の名前と、落書きを見つけた。
 成人する前に、実家を飛び出した私が置いていった絵本を、姉は結婚するときに大事に持って行ったのだ。姉の部屋の本棚で、『ゴーシュ』はずっと、たくさんの本たちと一緒に背表紙を見せて並んでいたのだろう。少し陽に焼けた『ゴーシュ』を、姉は時おり懐かしく読み返しただろう。あたりはまだ被災して間もない凄惨な風景の中、瓦礫の上で私は、その埃だらけの絵本をむさぼるように読んだ。
 読み終えたとき、私は、すっかり幼い私と姉になり、二人並んで本を読んでいる光景に包まれていた。
 木漏れ日のあたる縁側で、姉はきちんと座ってお行儀よくページをめくり、その隣で私は、鼻くそをほじりながら寝転がって読んでいる。時々、姉は私に絵本を読み聞かせ、それを茶化しながらも、幼い私は熱心に聞いているのだった。
 冬の夕陽がすっかり落ちて、彼方の六甲山が黒く迫ってくる時間まで、私はひとり、そんな空想を楽しんだ。
 それ以来、また私に読書の習慣が戻ってきた。外をうろつきまわる生活は相変わらずだが、本を読み、自己の内面を見つめる時間がより必要になった。そんな私を、ずっと、よれよれになった『ゴーシュ』が、本棚から温かく見つめている。
 そして私は四十歳を過ぎ、姉の真似をして、物語なぞを綴り始めている。






続く








nice!(1)  コメント(3) 

神戸 1995.1.17 続きの続き

Hankyu_8008F.jpg


 梅田駅を発車した阪急電車は、ゆっくりゆっくり慎重に進んだ。ほとんど徐行である。車内はすし詰めで、背中にじっとり汗をかくほどだが、車窓から見える街並みが徐々に変化していくのを見ると「こりゃ、仕方ないな……」と我慢するしかなかった。西宮に近づけば近づくほど、塀や壁が崩れている家が多くなり、そのうち半倒壊の家屋もチラホラ目立つようになった。この電車が走っていること自体、奇蹟なのかもしれなかった。
 神戸という街は分かりやすい構図になっていて、山の手と下町が、目に見えるかたちで並存している。北に六甲山、南に瀬戸内海。その真ん中の広くはない土地を、上の山の手側から阪急、真ん中にJR、沿岸部を阪神電車が東西に走り、ざっくりと言えば、それはそのまんま上下の階層差になって、それぞれの町が形成されていた。
 だから、神戸といえば、姉の新婚家庭に一度だけ訪問しただけの私でも、東灘区の古い木造家屋にたどり着くのはそれほど困難ではないだろう。姉夫婦の家が、阪神線魚崎駅のすぐ近くにあったので、西宮北口駅で梅田へと折り返す阪急電車を降りたらすぐに南下し、JR線を越え、阪神線にたどりつき、あとは線路伝いに西へ歩いていけばよい。姉の家の裏手から魚崎駅のホームの端っこが見えていた。とにかく阪神線魚崎駅が目的地だ、と混雑した阪急電車の中でシミュレートした。阪神線にも西宮駅がある。そこからわずか六駅目が魚崎駅だ。歩きとはいえ、1時間もかかるまい。そんなふうに、そのときは考えていた。
 だが、西宮北口駅でぎゅうぎゅうの電車から降り、そのまま人の流れに押されるようにして駅前広場から国道へと出てみると、そんな考えはぶっ飛んだ。電車から見えた風景も、西宮に近づくにつれて変化したが、今目の前に広がっている光景は次元が違う。それは、まったく経験したことがない「現実」を、目の前に突き付けられた瞬間だった。
 それはもう何度も報道されているし、実際にボランティアなどで神戸入りし、眼前の現実として経験した人も多いだろう。だからここで細かく描写はしない。共通の体験は、書かなくても伝わるハズだ。
 戦争を知らない私にとっては、爆撃を受けた都市の惨状がこんな感じなのかと、妙に冷静に分析しながら歩いていたようである。このような極限状況を目の当たりにして、人々は意外と冷静になるのだ。興奮したりパニックになったりする人がいないでもないが、それを周囲の多くの人びとが見守っている。そんなことを、この時初めて知った。
 とはいえ、道路は倒壊したビルや家屋で塞がれ、線路や高架も歪んだり崩れ落ちたりで、私の目論見は大きく外れた。線路沿いに歩くどころか、それらを避けてあみだくじのようにして歩くほかなかった。それでも、紙上のあみだくじなら方角を違うことはないが、私のあみだは、あまりに何度も方向転換しているうちに逆方向に戻ったりして、結局たっぷり2時間以上もかかって、ようやく姉の家のあったらしき地点に到着した。
 その間に見た光景もまた、報道その他でご存じかと思うので、ここでは書かない。
 崩壊した家を掘り起こしながら涙ながらに訴える人も、震えながら毛布にくるまる老人も、飼い主をなくして呆然とする犬も、ひょっとしたら生きているかもしれない姉のいる古い木造家屋に一刻も早く着かねばと、横眼で見ながら素通りした。
 そのような態度はエゴイスティックに過ぎるかもしれない。そう、そうなのである。阪神淡路大震災から二十年が経った今でも、この震災に関して言えば、個人的な出来事としてしか捉えることが、私には出来ない。その16年後、3・11の東北には、当時勤めていたボランティアセンターの職員として、被災地支援活動に参加した。それがきっかけとなり、東北の問題は、歴史を掘り下げて、エミシとヤマトの関係性として捉えなければならないと考えている。その意味において、福島原発事故にも関心を持ち続けている。だが、神戸は、神戸だけは違うのだ。
 私の好きなフォーク歌手で詩人の友川カズキは、弟が鉄道自殺で亡くなったことを、何度も詩や歌で表現し続けているが、私にとっての1・17は、その友川と同じように、呑み込んでしまった石が、いつまでも腹の中で灼け続けているようなものだ。だからこの震災ドキュメントも、ついつい個人的な物語に偏りがちなのを、どうすることも出来ない。
 ついでながら、その友川カズキの詩を紹介しておこう。
 自殺した彼の弟「覚(さとる)」を歌ったものである。


  無残の美

 詩を書いた位では間に合わない
 淋しさが時として人間にはある
 そこを抜け出ようと思えば思うほど
 より深きモノに抱きすくめられるのも また然りだ

 あらゆる色合いのものの哀れが
 夫々の運を持ちて立ち現れては
 命脈を焦がして尽きるものである時
 いかなる肉親とても数多の他人のひとりだ

 その死は実に無残ではあったが
 私はそれをきれいだと思った
 ああ覚 今もくれんの花が空に突き刺さり
 哀しい肉のように 咲いているど

  

 震災ドキュメントとしては、今私はちょうど姉の家のあった地点に到着したところだ。
 あった地点などと妙な言い方をしているのは、線路や駅の位置から、ここが多分そうだろうと推測できるものの、あるべきものがすべて押しつぶされて、ガレキの山と化していたからで、そこに姉の夫の両親が呆然と立っていなかったら、どこが姉の家のあった場所か特定できなかっただろう。
 何年か前に姉の家を訪れたときは確か、魚崎駅の海側階段を降り目の前のゆるやかな下り坂を下って、一、二度、右に左に折れると、いまだ舗装されていない路地があった。子どものころ、ビー玉やメンコで遊んだような、懐かしい土や草や犬の小便の匂いがする路地だ。その奥が姉の家で、関西ではよく見かけるタイプの貸家だった。一軒の二階建てを半分に割って、左右に玄関をつけ、二世帯が暮らせるようにしたもので、そのような古い木造家屋が数棟密集していた。
 それらがすべて、ぺしゃんこに跡形もなく倒壊していた。近くで起きた火事がその倒壊現場に迫っていたようで、何とかぎりぎりの手前で食い止めたらしく、ほんの数メートル先でまだ煙をあげてくすぶっていた。火がつけば、燃えやすい木や紙のガレキばかりだ。あっという間に燃え尽きてしまっただろう。3・11の大津波のように。跡形もなく消えてしまっただろう。
 震災後しばらくは、そのことを想像するだけで背筋が凍る思いがした。なんとか燃えずにすんだおかげで、かろうじて残った幼い命と、原稿用紙の束があった。

 夫婦二人の遺体は、近くの駐車場のアスファルトの上に襖を置き、掘り出されたままの姿で寝かされていた。死後硬直で筋肉が固まっているので、その姿勢しか取れなかったのだろう。遺体がうつ伏せというのも変な感じがしたが、どのようにして亡くなったかを、無言の姿勢で暗示していた。硬直した動かない肉体が、言葉よりも雄弁に。
 頭を上とすると、それは逆Vの字になっていて、おそらく夫が姉の上に覆いかぶさるようにして亡くなったことは、すぐにわかった。夫の顔は少し外傷があり、額や唇に乾いた血の跡があった。崩れてきたタンスや天井、屋根瓦の重みを、ひとりで受け止めようとしたのだろう。苦痛で歪んでいるような表情が痛々しかったが、姉の顔を見ると、土ぼこりはかぶっているものの、傷一つなく眠っているような安堵感がある。それを見ると、男らしく妻と子どもを守った夫の顔も、歪んではいるものの、誇らしげにも見えた。二歳の娘は、この夫婦が身を投げ出して作ったわずかな空間で、生き永らえることが出来たのだ。
 疲れ果てた表情の中年の男性が近づいてきて、助け出された娘の現況と、掘り出されたその時の状況を語ってくれた。発災から数時間後、男性は、近所の数人と、ガレキの中に人がいないか探して回ったらしい。すると、姉の家のあったあたりから、泣き叫ぶ子どもの声がする。「ここにいるぞ!」と数人を集め、声のするあたりをてっぺんから掘り起こし、なんとか娘を引っ張り出した。その時、夫婦の身体の一部が見えたが、声かけしても返事はなく、手で触ってみても冷たかったと、申し訳なさそうに語ってくれた。
 そのときの男性の目はあらぬ方向に泳いでいて、もしかしたら生きていたか、まだ多少温かかったのか、などと疑ったりしたが、その可能性はなかっただろうということは、あとから考えても確実だった。疑ったりして、本当に申し訳なかったと、今でも後悔している。
 そもそも現場には火が迫っていて、急ぎの消火活動もあったはずだ。また、他にも埋もれて助け出すべき人は、周囲にたくさんいた。それに、倒壊家屋での圧死の場合、数分か数十分で意識が薄れ死亡する。あの男性に、責められるべきことなど何もないのである。目が泳いでいたのは、それでも助けてあげられず、今ごろになって掘り出さなければならない無念を表していたのだった。他人の家族の死を、自分のことのように慮る、災害現場特有のシンパシーがなせる人間の表情だったのかもしれない。それを、エゴ丸出しに誤解した。重ねがさね、申し訳なかったと思っている。

 その後、夫婦の遺体は襖の上に寝かされたまま、大通りのハイエースに運ばれ、近くの神戸商船大学の体育館にずらりと並べられた遺体の端っこにそっと置かれた。大渋滞で遅れた両親もようやく到着し、夫婦それぞれの両親、私、夫の弟と、遺族がそろって二人の遺体を囲み、涙した。
 それでも私は姉に、「大好きな夫といっしょでよかったね」と声をかけた。それくらい姉は、安らぎ、深く眠っているようにしか見えなかった。夫の表情も、皆に会えたからか次第にやわらぎ、いつも冗談を言って人を笑わせる大阪人独特のおどけた顔のようにも見えた。


51X5K4ZPK7L__AA160_.jpg

 
 姉は、小学生のとき、こんな詩を書いている。


  一人ぽっちの池

 小さい庭の小さい池
 おたまじゃくしをたくさん入れた
 でも、蛙になって出ていった
 かっていた金魚もいない
 夏にはきれいに咲いたホテアホイ
 葉もいきいきとのびていた
 そのうち葉も冬にはくさった
 だから、捨ててしまった
 友だちがいなくてかわいそう
 春になったらちょうちょやはちと遊べるのに
 それまでに三ヶ月もある
 いったい毎日、なにをやっているのかな
 雪は友だちになってくれないの
 雨だって降るじゃない
 雨や雪の降らない日は一人ぼっち
 だれか池と、友だちになってあげて


 小学生時代に住んでいた一軒家の狭い庭に、小さな小さな池を、父親がわざわざセメントを買ってきて作ってくれた。姉と私は、そこに金魚すくいで取った金魚や、水草を浮かべたりしたが、やがて忘れられてただの水たまりのように放置された。いや、忘れてしまって草野球なぞに熱中していたのは私だけであって、家で本を読んだり絵を描いたりして過ごすことが大半の姉は、そんな小さな池に、優しいまなざしを向けていたのだ。ひとりぽっちの自分を、いつの間にか重ねながら。
 
 姉の心には、いつも「寂しさ」があった。孤独の「切なさ」があった。
 でも、だからこそ、深く優しさに包まれるような作品が書けたのだと思う。
 亡くなる直前まで、そのような童話作品を、愛しい娘を膝に座らせて書き続けた姉は、本当に幸せだったに違いない。子ども時代、ひとりぽっちで夢を見る暗い少女だっただけに、古くてぼろい「ねずみの家」は、着飾ることの嫌いな質実剛健一本槍の研究者である夫を心底愛するように、破れた襖や焼けて色あせた畳でさえ、頬ずりしたいくらい愛おしかったのかもしれない。
 それらすべてを、震災が断ち切ったわけだが、幸せの絶頂で亡くなることがせめてもの救いだったのか、無念を残して逝ったのか。私には、永遠に分かるはずもない問いとして残り続ける。



続く





nice!(0)  コメント(0) 

神戸 1995.1.17 続き

e03_20_14.jpg


 17日の朝、夜勤明けから帰宅して、ずっとテレビを見ていたので、神戸の被害の状況が少しずつ分かり始めていた。17日の夜の段階で、死者1千人強と発表されていたと思う。18日早朝の新幹線の中でも、眠い目をこすりながら、携帯ラジオから情報を取り続けた。姉のいる東灘区は住宅密集地で、古い木造住宅も多い。姉の住んでいる家がまさにそうで、築五十年近い木造一戸建てだった。
 姉が結婚してすぐ、それは震災の3年ほど前だったか、一度だけ遊びに行ったのだが、キッチンが土間にあり、家の中に井戸もあってビックリした記憶がある。「この家、もう古くて、ネズミの住み家なのよ。だから、二階は物置きなの!?」と、ニコニコしながら話していた。ずっと片思いだった大好きな彼と一緒になれて、姉は幸せの絶頂だったのだろう。何事も華美なものを嫌う、質実剛健な関西人の夫に合わせることも、楽しくて仕方がないといったふうだった。
 夫婦にはすぐに赤ん坊が生まれ、姉の幸福感はさらに充実度を増していった。ハイティーンの頃まで続けていた創作意欲がわいてきて、童話サークルに入り、小さな地方の童話賞をもらった。それでさらに火がついて、姉は次から次へと創作していったらしい。それは、がれきの中から掘り出した、ダンボールひと箱ぶんの原稿用紙の束となって、震災後も残ることになる。


kujiranosima.png

 
 震災のドキュメントから脱線するが、いったん物事に没入したときの姉の集中力は半端なかった。姉の小学生の頃、このテのエピソードは事欠かない。物語り(空想)を考え始めると、その世界に入ってしまうので、授業中先生に何度呼ばれても無視して窓の外を見つめていたとか、玄関で靴を履いているときに物語スイッチが入ってしまい、ランドセルを忘れて学校に登校してしまった、とか。
 この時の姉の担任は中年の女性教師だったのだが、我が家まで苦情を言いに来て、「どうにかならないんですか! 私は馬鹿にされている!」と、半泣きで訴えたらしい。おかげで姉は、教壇の前の「問題児」の特等席に座らせられるハメになった。そうだ、思い出した! それでも、空想を止めず、何度も自分の名前を連呼する目の前の教師を無視して、ポカーンと空想を続けているので、これはもうどうにもならん!とばかりに、怒鳴り込んで来たのだった。後にその話を聞いて、「そらアカンわ……」と、さすがに呆れたが、同時に羨ましくもあった。
 一つ下の弟だった私と姉は、年子というかまるで双子のように育った。だが、性格から何からまったく似ていないのだ。私は、嫌味な言い方だが、学校の成績はオール5でスポーツも得意。いわゆるオールマイティで、とかく目立ちたがり。関西でいうところのいわゆる「イチビリ」な男の子だった。ところが姉は、走り方も知らないくらいの運動音痴で、歌っても踊ってもまるでダメ。いつも教室の隅っこで本を読んでいる暗い少女だった。ところが、国語だけはめっぽう出来る。小学生で少年少女文学全集を読破していたから、国語のテストなんぞ朝飯前だったのだろう。作文や感想文で、全国の金賞をもらったこともあった。県が発行している子ども文集の常連で、何度も巻頭に掲載されている。その意味では、姉は地味な外見とは反対に、教師の間ではちょっとした有名人だったのだ。
 そういえば、姉が最後に両親と電話で話したのは、震災の前日の夜。私が『プロ倫』なんぞをポッケに入れて、川崎の病院夜勤を勤めている頃だった。姉は、新聞で発表される共通一次試験の国語の問題を解いてみたら百点だったの!? と、自慢の電話でご機嫌だったようだ。小さな地方の賞だが、童話賞をもらって自信がついてきたのかもしれない。創作意欲がみなぎって、楽しくてしかたがなかったのだと思う。
 震災後数週間たったある日、両親のもとに、姉が毎日新聞社の童話コンクールで佳作になったという知らせが届く。神戸の自宅に通知を送ったが連絡が取れず、ようやく両親のところにたどり着いたのだ。大賞ではなかったが、姉がどんなに喜んだかと思うと、あまりの人生の皮肉さにやりきれなくなる。と同時に、一つ下の弟の私は、一芸に秀でた姉のタレントに、死者にであっても猛烈に嫉妬するのだ。愚かなことだが、どうしようもない。

 姉は、二歳の娘を膝に座らせ、一階の茶の間で、卓袱台に原稿用紙を置いて創作していたらしい。そういうことが出来るのも、娘が大人しい子で膝の上でちょこんと座って平気だったこともあるが、姉の集中力のなせる技だろう。そのスタイルで、段ボールひと箱の創作をしたのだから、もう平伏するしかない。私にはとても真似できない。
 だが、姉にとって幸福の象徴だったその古い木造家屋が、どれだけ危険だったのか。28歳の私には理解できていなかった。1月18日の早朝、新大阪までしか行くことの出来ない東海道新幹線の車中でさえ、よくわかっていなかった。そもそも、地震災害の死者のほとんどが、家屋の倒壊による圧死であるということさえ、知らなかった。
 でも、私より三十年は長く生きてきた両親は、さすがに分かっていたらしい。私が新幹線に乗っている時間、両親は夜通し運転して大阪まで来たものの大渋滞に巻き込まれ、まったく動かない車中で姉の死を覚悟したと、後に話していた。同時に、猛烈に後悔したという。引っ越しを急げばよかったと。
 両親は、父親が岐阜、母親が愛知出身で、1891年に起きた濃尾大地震などの記憶を受け継いでいた。美濃地方は、1960年代にも二度、大きな地震に襲われている。家屋の倒壊が最も危険だということを熟知していた。だから、姉が結婚して古い木造家屋で新婚家庭をスタートさせたとき、「早く引っ越しをしなさい」と繰り返し言っていたらしい。
 だが、これは難しい問題だ。両親は、経済的に余裕がないのなら援助しても良いとまで提案したようだが、結局かなわなかった。まさか神戸に大地震は来るまいと、誰もが思っていたし、夫のプライドもある。
 姉の夫は企業の研究職だった。工学系だったと思う。特許を次々と取得し、若手のエース格だったようだが、陽気な性格で頑固でもあった。阪大時代はアイスホッケー部の主将。後輩に「牛しばきにいこか~、茶しばいたろか~」(牛丼食いに行こうか、お茶でもするか)と、明るく声をかける人望の厚い男だったと、通夜の席で学生時代の友人が語っていたが、私の印象も正にその通りだった。好漢惜しむべし……。美男子ではなかったが、その男の中の男が、「俺が稼いですぐに家を建てますから、それまで待ってください」と言えば、もう両親は何も言えない。そう、どうしようもなかったのだ。良い男だけによけい、手出しのしようがないということもあるのだ。

 新幹線は9時頃、新大阪駅に着いた。在来線で梅田に移動する。大阪市内は特に変化が見られない。通常の通勤ラッシュで、駅も車内も人でごったがえしているだけだ。
 だが、梅田駅は違った。阪神、JR在来線はいずれもストップし、阪急電車のみ、西宮北口駅まで折り返し運行を行っております! とアナウンスで叫ぶように連呼している。それで、阪急電車のホームに行くと、まるで戦後の食糧買い出し部隊のように、水や食料をリュックに詰めた人たちが列を作って並んでいた。
 私もその最後尾に並び、何本かを乗り過ごしたあと、人と荷物でぎゅうぎゅう詰めの車内に入ることができた。濃い紫色の、通常なら優雅にさえ見える阪急電車が、難民列車のようになって走り始めた頃、私の不安は高まるばかりだった。生きていてくれ。とにかく生きていてくれ。そう何度も心の内で願っていた。




続く






nice!(0)  コメント(1) 

神戸 1995.1.17

117.jpg

またこの日が巡ってきました。
とうとう20年の歳月が流れてしまった。
いろんなところで書いてきたので、もううんざりの向きもあろうかと思いますが、忘れたくない記憶なのに、徐々に薄れていく。時間は残酷です。
先日、飲みながら1.17の話をしていて、自分が翌日に神戸入りしたのか、翌々日だったかとっさに答えられず、焦りました。そんなことも、20年も経つと忘れてしまうのです。
だから、自分のために、備忘録として、あの時のことを書いておこうと思いました。

(いつものブログとは違う文体で書きます。)




hanshin1.jpg


 1995年1月16日の午後7時。私は川崎市川崎区にある川崎共同病院の受付事務室に入った。
 当時私は、病院の夜間受付業務を委託されている会社に勤め、週3~4の当直勤務をしながら、昼間は大学に通うという生活をしていた。勤務は夕方7時から翌日の朝8時半まで。夜中の12時~6時は、仮眠を取れるが、急患が来るとブザーで起こされて、ドアを開けカルテを出したり、医師を起こしたりの業務をこなさなければならない。28歳のまだ若かった私だが、けっこうきつい業務だった。
 病院のあるこの地域は、川崎の工業地帯に隣接していて、コリアンタウンなどもあるディープ川崎のど真ん中だ。小学校の時に社会科で習った「川崎ぜんそく」の患者が多く、カルテに赤いハンコで「公害認定」と押されてあるぜんそく患者が、夜中に発作を起こし、病院に吸引をしにやってくる。寒い冬の夜だと、その数が目に見えて増えるのだ。
 その夜、1月16日も多かったように記憶している。この時期らしくカラカラに乾燥し冷え込んだ夜だった。風も強い。こういう夜は発作を起こしやすいのだろう。私たちは、ソファに横になって仮眠を取るのだが、うとうととしたら「ブッブー」、うとうとしたら「ブッブー」の繰り返しで、こうなったら寝るのは諦めて本でも読もうってなことになる。
 真夜中の4時ごろ。私は持ってきた文庫本を開いて、生あくびをかみ殺しながら読み始めたはずだ。たしか、岩波文庫の『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』だったように思う。なぜなら、当時私は28歳ながら大学の1年生で、社会科学を学んでいたのだった。1月半ばといえば、大学生は試験とレポートで忙しい。経済史か何かの教授が、この本を読みレポートを提出せよと言うので、大学生協で買って読んでいたように記憶する。それは後に、新大阪までしか行くことの出来ない東海道新幹線の車中でも開いていたことを覚えているので、間違いない。そんな些末なことはどうでもよさげなのだが、なぜかよく覚えているのだ。いわゆる『プロ倫』の青い表紙が、新幹線の座席テーブルの上に、珈琲と並んで置いてある光景までも記憶に残っている。記憶とは不思議なものだ。大事なことさえ忘れかけているというのに。
 さて。朝の5時を過ぎると、さすがに患者も来なくなっていた。いつも同僚と二人で当直をするのだが、この時間は最後の院内見回りという業務がある。5時半を少し過ぎたころだったか、私は同僚に「俺が行きます」と声をかけ、懐中電灯片手に見回りを開始した。
 小一時間ほどかけて、大きな病院内を見回るのだが、ご想像の通り、これがなかなか恐ろしい。霊安室なども、一応鍵を開けて中を確認しなければならない決まりになっていた。もしその日に亡くなった人がいれば、そこには冷たい死体が眠っているわけだ。冬のこの時間は朝とはいえまだ真っ暗で、私は正直だいぶ端折って、廊下の奥の非常灯の下で本を開いたりしてサボタージュし、6時半過ぎに同僚のいる受け付け事務室に戻った。これで業務はほぼ終了。あとは、出勤してきた病院の正規事務職員に引継ぎするまで、正面玄関の前を掃き掃除したりして時間をつぶす。
 が、戻ってきた私に同僚が、いつもとは違う言葉を投げかけた。
「おい、関西でなんか大きな地震があったみたいだぞ」 え? 関西ってなんだよ。それじゃ広すぎて、どこだかわかんないよ。そんなふうに私は思ったはずだ。「けっこう揺れたぞ、こっちも。気が付かなかったのか?」と同僚。私は、見回りで歩いていたためか、全然揺れを感じなかった。
 でも、関西のどこだろう? 少し気になる。ただ、その時はその程度だった。別に大したことはあるまい。神戸に姉夫婦が住んではいるが、どうってことはないだろう。そう思っていた。
 8時半で業務が終わるとすぐ、いつもは川崎行きのバスを待つため、病院前の停留所に並ぶのだが、その日は公衆電話のボックスに向かった。なぜなら、出勤してくる病院の職員たちが口々に、「神戸が大変なことになっているみたいだ」と言っていたからだ。それでも、まあ大したことはないだろうと、タカをくくっていた。
 とりあえず、横浜市金沢区の自宅にいる妻に電話を入れる。テレビのニュースを見た妻の声は、緊張し高く上ずっていた。仕事もちの妻は、3歳の娘を保育園に届け出勤するあわただしい時間だ。「とにかく出かけるから」と電話を切られた。私は手帳を取り出し、神戸の姉の家の番号をプッシュする。つながらない。話し中かと思ったが、何度やっても「プープープー」の繰り返しだった。
 この頃からだろうか。私の時間の流れが一気に変わっていったのは。妻子持ちの大学生という風変わりな生活だが、それでも私なりの日常は日常として、ゆっくりと流れていたのだ。
 帰宅して、テレビをつけてから、私は徹夜明けにも関わらず、一睡もせず夜までずっとテレビに釘づけになった。電話機を目の前に置き、何度も姉の家にかけた。何度も何度も何度も。
 両親は名古屋に住んでいた。姉と私が、思春期の多感な時代を過ごしたマンションだ。両親とも仕事があったが、今夜、車で神戸に向かうという。水や食料を積んで。愛娘よ、生きていてくれと願いながら。
 横浜の私は、早朝一番の新幹線に乗って、新大阪まで行くことにした。そこからの手段はわからない。とにかく、行ってみるしかなかった。その晩、テレビの前で、寝たり起きたり。ほぼ2日連続徹夜の状態で、18日早朝、横浜の自宅を出た。妻と三歳の娘が、不安そうな面持ちで見送ってくれた。



続く





nice!(0)  コメント(1) 

年末年始のこと。亀戸浅間神社と岐阜県養老郡養老町の養老神社。

IMG_2245.JPG
IMG_2246.JPG

七草粥も過ぎたのに、今ごろ謹賀新年。
今年もよろしくお願いします。

久しぶりのブログ更新。

写真は、年末30日の亀戸浅間神社の大茅の輪です。
東京新聞に載っていたので見に行きました。宮司さんが正月の準備で大忙しの横で、出来たばかりの茅の輪を写真に収めました。
毎年氏子たちが集まって、この高さ3メートル65センチ、太さ30センチの輪っかを作るのだとか。高さには1年の365日、太さはひと月の30日を意味するのだそうです。
これは宮司さんから直接伺いました。話しぶりから、相当ご自慢の大茅の輪だと分かります。
普通のものより倍近い大きさでしょうか。

大祓(おおはらえ)。昔は6月末にも行っていました。今は年末だけのところが多いですね。
1年の厄を祓い、新しい年を迎える。ま、庶民の願いとしては、理解できますが……。

で、宮司ご自慢の大輪っかにケチをつけるわけではないですが、祓えや厄ってナンでしょね。
神社内の説明版に、このように書かれていました。

『大祓は、1年の罪穢(つみけがれ)を祓い清めるための神事であり、日本人の伝統的な考え方(人は本来神さまの心を持っているのだが、日々の生活の間に、知らず知らずにその心もくもり、罪を犯し、穢れに触れて、神さまの心から遠くなっていく。これを祓(はらえ)によって本来の心に帰らす)に基づくもので、常に清らかな気持ちで日々の生活にいそしむよう、自らの心身の穢れ、そのほか、災厄の原因となる諸々の罪・過ちを祓い清めることを目的としています』

ふむふむ。なるほど。確かに日本人の伝統的な考え方かもしれません。
プロ野球の試合でも、負け続けているチームがベンチの前に塩を盛ったりしますからね。
厄介祓いは、今でも日常的に行われます。
厄年の人は、前厄後厄を含め、せっせと祓えに通いますし。日本人は本当にこの考え方が好きですね。

でも、どうなんだろう。
このブログを読んでくださっている少数の方々や、私の書いたものを読んでくださる方々には、「またその話か……」と言われそうなので恐縮ですが、差別感情の根源に、この「祓え・清め」の考え方があることは、間違いないと思いますね。

人はケガレている。それはそうかもしれません。等しく皆、ケガレている。人も神も。
生きることが、殺し(命を食す)、奪う(大地から収奪する)ことなら、人はケガレから逃れることは出来ません。
仏教的には、そういう輪廻から解脱(げだつ)する思想を考え出して、人々に広めていくのだろうし、キリスト教にもそういう思想はありますね。
原理主義の人たちが「悔い改めなさい、天国はあなたのためにあります」みたいなことを、車に積んだスピーカーで繰り返しながら、街を流しているのをよく見かけます。

日本の神道独自の発明は、それを現生で祓い清めることが出来るという大マジックでしょうか。。
例えばこの大きな輪っかをくぐれば祓い清められる! Oh! What eazy isnt it ?

でも、それによって、差別が生じます。
日々、ケガレに触れ過ぎている人たちは、ケガレ続けて清められることがない、とか。
女性はケガレているとか。いまだに、相撲の土俵は「女人禁制」ですし。

それなら、まだ天国やあの世で清められる思想の方がマシのような気もしますが。


ところで、この大茅の輪のある亀戸浅間神社のご神体は、コノハナサクヤヒメです。
あの火中出産した女神ですね。生まれた子の孫が、天皇家の初代、神武天皇になります。

ウィキによると、コノハナサクヤヒメは、以下のように書かれていました。

『火中出産の説話から火の神とされ、各地の山を統括する神である父のオオヤマツミから、火山である日本一の秀峰「富士山」を譲られた。祀られるようになり富士山に鎮座して東日本一帯を守護することになった。
ただし、浅間神社の総本山である富士山本宮浅間大社の社伝では、コノハナノサクヤビメは水の神であり、噴火を鎮めるために富士山に祀られたとしている。また、この説話から妻の守護神、安産の神、子育ての神とされており、コノハナノサクヤビメにちなんで桜の木をご神木としている』


konohana.jpg

水の女神だったのか。。
かつて、亀戸浅間神社にも富士塚があり、江戸時代には富士講が大流行りだったそうです。

富士山と桜。そして水の神。なんともまあ、日本人の好きなものばかり。

IMG_2265.JPG

さて。
そんなこんなで年が明けて、実家のある岐阜県に帰省しました。
養老郡養老町。帰ると必ず、私は養老の滝を見に行きます。
昔は観光客でごった返した養老の滝も、今はほとんど人がいなくて閑散としています。

ここの滝の水の物語は、誰でも知っていますね。居酒屋チェーンの「養老乃瀧」は、この話が元になっているのかな。

それはこんなお話です。


昔、元正天皇の御時、美濃国に、貧しく賎しき男ありけるが、老いたる父を持ちたり。
この男、山の木草を取りて、その値を得て、父を養ひけり。
この父、朝夕、あながちに酒を愛し、ほしがる。これによりて、男、なりびさこといふものを腰につけて、酒を沽(う)る家に行きて、つねにこれを乞ひて、父を養う。
ある時、山に入りて、薪を取らむとするに、苔深き石にすべりて、うつぶしまろびたりけるに、酒の香しければ、思はずにあやしくて、そのあたりを見るに、石の中より水流れ出づることあり。
その色、酒に似たり。汲みてなむるに、めでたき酒なり。うれしくおぼえて、そののち、日々にこれを汲みて、あくまで父を養ふ。
時に帝、このことを聞こしめして、霊亀三年九月に、そのところへ行幸ありて、御覧じけり。これすなはち、至孝のゆゑに、天神・地祇あはれみて、その徳をあらはすと、感ぜさせ給ひて、のちに美濃守になされにけり。
その酒の出ずる所を養老の滝とぞ申す。かつはこれによりて、同十一月に年号を「養老」と改められける。


このことも何度も書いていますが、まあなんと嘘くさいお話だこと。。
本当は、貧しくて老いさらばえた父親を養いきれず、ただで手に入れた酒を飲ませ続けアル中にし、ついに死に至らしめたのか。

ただ、「貧しく賎しき男」というのが気になります。賤民のお話だったんだ。
竹取物語に登場する「竹取りの翁」も「貧しく賎しき老人」でした。そういえば、竹取物語も最後は富士のお話で締めくくられます。

で、この養老の滝にある養老神社ですが、ここはキクリヒメが祀られています。かつてはセオリツヒメが祀られていたという説もある。
前者は、白山神社の女神。後者は、大祓の祝詞で「清め」のトップバッターとして登場する女神。
両方とも水の女神です。

コノハナサクヤヒメも含め、神々の物語の中でこれらの女神が担わされている役割が、この私たちの現生にも反映されている。そのことに、私は関心を払いたいのです。

そういえば、総選挙の前に閣僚の女性が叩かれまくりましたが、ある意味彼女たちは、政権の「罪・ケガレ」を祓い清める役割を果たしたのかもしれません。そう、ワインやうちわの蔭で、それらよりも、もっともっとえげつない話が進行していったのでした。そのエグイ話は現在も進行中です。選挙に勝って「禊ぎ祓え」は終えたとばかりに、鼻息の荒い首相。


IMG_2271.JPG


これは、養老の滝から降りてきた小道の傍らを流れる小川です。
数キロ下って来ても、水はこんなにも澄んでいる。
清らかな水は本当に美しいですね。心が洗われるとはよく言ったものです。

水と米で作る日本のお酒は清酒。
濁り酒は、今では「美味い、飲みやすい」と喜ばれますが、「濁る」という語感からも想像できるように、清酒とは比べる対象にさえならない酒でした。いわゆる「どぶろく」ですが、本当はこっちの方が昔からあった酒なのですね。これを漉したりして清酒になっていった。

清酒も良いですが、どぶろくもまた味わいがあります。
「清濁併せ呑む」などと言いますが、そもそも人間は、清濁併せもつ存在なのですね。
それなのに、人口の半分もいる女性に濁の部分を押しつけたりするのは、もうやめませんかと言いたい。

年の初めに、またぞろこんなことを主張してみたりしました。

ではまた。








nice!(0)  コメント(2) 

「上を向いて歩こう」作詞永六輔 作曲中村八大 と 寿「前を向いて歩こう」は何が違うか その3

IMG_2227.JPG



言葉について考えてみたい。

例えば、こんな歌詞はどうでしょう。


知らない街を歩いてみたい
どこか遠くへ行きたい
知らない海をながめていたい
どこか遠くへ行きたい

遠い街 遠い海
夢はるか 一人旅

愛する人とめぐり逢いたい
どこか遠くへ行きたい

愛し合い 信じ合い
いつの日か 幸せを

愛する人とめぐり逢いたい
どこか遠くへ行きたい

どこか遠くへ行きたい


詞・永六輔 曲・中村八大の名コンビ、「遠くへ行きたい」です。
1962年、ジェリー藤尾が歌ってレコードになりました。

この曲も、たくさんの歌手がカバーしています。
良い曲は、いろんな人がカバーしたくなる。そういうものですね。

ウィキやYoutubeで検索してみても、小林旭、ちあきなおみ、倍賞千恵子、さだまさし、森山良子、元ちとせ、オユンナ、キム・ヨンジャ、そうそうたる顔ぶれです。実力派のすごい歌い手ばかり。

でも、私は、やっぱひねくれてるのか、俳優の渥美清が歌ったバージョンが一番好き。
ぜひYoutubeで聴いてみてください。

遠くへ行きたい.jpg

渥美清といえば、旅から旅のフーテンの寅。
今さら「遠くへ行きたい」って、ああた、冗談もほどほどに……。
と、ツッコミたくもなりますが、違うんですねぇ。

渥美清=フーテンの寅。彼ほど、この曲が似合うキャラはないでしょう。
はい、独断で断言します。
どこか、お道化てて、そしてもの悲しい。あ。「上を向いて歩こう」の忌野清志郎と共通してますね。

でも。
こんな昏い、寂しい歌、今の人は歌わないし、歌えない。

もし、誰かが、こういうトーンで詞を書いたとしても、たぶん、自己規制がかかるのではないでしょうか。「こりゃ、発表できないな……」と、自己の胸の内にそっと隠してしまう。そして、そのうち、こういう詞は書かなくなる。

そしていつのまにか、明るい、ポジティヴなメッセージ、直接的な、分かりやすい言葉ばかりが氾濫するようになる。
こんなふうに。



先の事どれほどに
考えていても
本当の事なんて
誰にも見えない

空白心に
何かがつまって
過ちばかり
繰り返してた

一歩ずつで良いさ
この手を離さずに
共に歩んだ日々が
生き続けてるから
ボロボロになるまで
引き裂かれていても
あの時のあの場所
消えないこの絆

流れゆく時間のなか
失わぬように
すれ違い
ぶつかった
本当の気持ち

心に染みてく
あいつの想いに
出会えた事が
求めた奇跡

立ち止まる事さえ
出来ない苦しさを
中に見えた光
つながっているから
嘘ついたって良いさ
涙流していいから
あの時あの場所
消えないこの絆

一歩ずつで良いさ
この手を離さずに
共に歩んだ日々が
生き続けてるから
ボロボロになるまで
引き裂かれていても
あの時のあの場所
消えないこの絆


誰の歌かは書きません。
特定しませんが、ここ20年ほど、みな同じような歌詞ばかり、書いて歌うようになった。

どうして?

私は、ここ20年ほどで、歌い手も聞き手も、歌を商品としてしか扱わないようになったからだと思います。

売れるか
売れないか

これが唯一の価値基準となった。

小説などの本の価値も、やや遅れてそうなった。
映画も。

昏い歌は売れない。
消費マインドにそのパターンが刷り込まれ、それが常態化している。
少し前までは、少々昏いコマーシャルもあったけど、もう見られませんね。
消費マインドに縛られるのです、コマーシャリズムは。

かくして、歌もコマーシャルも、明るくて分かりやすいものばかりになった。
消費者にものを考えさせず、立ち止まらせず、ひたすら消費させる。

テレビで政治家や経済評論家が言ってるじゃないですか。

消費低迷
デフレマインドからの脱却

でも、変なハナシじゃないですか?

自分の部屋をぐるりと見渡してみましょう。
ここのところの格差問題で、そうでない人が読んでいたらごめんなさい。
でも、多くは、生活に不足している商品って、なにかありますか。

欲望さえ刺激されなければ、モノを新たに買う必要なんて、ほとんどない!!

なのに、買え買え買え!! と、言われ続ける。
いったいなんのスパイラルなんでしょうかねえ。

無駄なものを買えばゴミが増える。
地球環境にはよくないのでは?

企業活動が活発にならなければいけない

これもよく言われます。

でもねぇ。
企業が活発になればなるほど、やっぱり地球環境はぶっ壊れ、人間の心も荒廃する。
今までさんざん繰り返してきて、まだ学習してないんですか。

東京オリンピック
リニアモーターカー
原発再稼働
カジノ

これらで企業はがっぽり儲けるだろうけど、そしてその社員たちも恩恵に多少はあずかるだろうけど、それ以上に失うものの方が大きいはずです。


ハッキリ言って、企業が消費者にムダに物を買わせ続けるには、消費者がバカな方が良いのです。
その方がコストパフォーマンスがぐーんと良くなる。

コスパ!!

企業のコスパのために、我々はみずからバカになって、物を買いあさるロボットと化した。
「企業活動を活発に!」という経済重視の政治家に、こぞって票を入れるようになった。
3.11の後の選挙だって、有権者の関心1位は「経済」だったのですよ!

星新一や筒井康隆のSF小説じゃありません。
これが現実です。

消費者をバカにするには、どうすれば良いと思いますか?

本を読んだり、難しい映画やドキュメンタリーを観たりなど、モノを深く考えさせなければよい。
難しい芸術(絵画、演劇、写真)なども必要ない。

大学はもはや就職予備校です。
それがおかしいことだという問題意識でさえ希薄になっている。
二十歳前後のこの時期こそ、本を読んだり、映画を観たり、青臭い議論をしたり、好きな女の子を取り合って殴り合ったり、失恋して泣いたり、貧乏な旅をしたり、酒を飲んだり、就職とはまったく関係のない就職には「ムダ」なことを、いーっぱいやらなけければ、と思うのですが。

そうすれば、少しはバカにならずにすむのに……。


さきほどの、渥美清の「遠くへ行きたい」は、曲の最初に俳優らしく短いセリフが入ります。


う~ん
どっか行きたい

でも、どこ行っても
すぐ飽きちゃうんだよな

へっ! こんなこと言って、歳とってっちゃうんだ……


でも、歌い始めると、やっぱり「遠くへ行きたい」です。

知らない街を歩いてみたい
どこか遠くへ行きたい
知らない海をながめていたい
どこか遠くへ行きたい

遠い街 遠い海
夢はるか 一人旅

愛する人とめぐり逢いたい
どこか遠くへ行きたい

愛し合い 信じ合い
いつの日か 幸せを

愛する人とめぐり逢いたい
どこか遠くへ行きたい

どこか遠くへ行きたい


IMG_1998.JPG


嗚呼。
遠くへ行きたい。





続く










nice!(1)  コメント(2) 

「上を向いて歩こう」作詞永六輔 作曲中村八大 と 寿「前を向いて歩こう」は何が違うか その2

E5AFBF5Bkotobuki5DE38081E59088E688902shot-thumbnail2.jpg


断っておきますが、私は、バンド寿の大ファンです。
CDも持っているし、ライヴに何度も足を運んだ。

沖縄と広島出身の二人。
今ではめずらしい社会派バンド、メッセージ性の濃厚なミュージシャンです。
ぜひ、これからもガンガン活躍して欲しい。

だからこそ、書いておきたかった……。


上を向いて歩こう
涙がこぼれないように
思い出す春の日
一人ぼっちの夜

上を向いて歩こう
にじんだ星を数えて
思い出す夏の日
一人ぼっちの夜

幸せは雲の上に
幸せは空の上に

上を向いて歩こう
涙がこぼれないように
泣きながら歩く
一人ぼっちの夜

思い出す秋の日
一人ぼっちの夜

悲しみは星の影に
悲しみは月の影に

上を向いて歩こう
涙がこぼれないように
泣きながら歩く
一人ぼっちの夜 
一人ぼっちの夜    (歌詞 永六輔)


考えてみるとこの頃、永六輔の歌は、他にも、

黒い花びら
見上げてごらん夜の星を
遠くへ行きたい

など、みな中村八大とのコンビですが、昏いイメージのものが多いですね。
いずれも名曲ですけど。


昏い歌は流行らない。 元気な明るい歌、メッセージを!

なんだかこういうことを言われ続けて久しい気がします。
でもこれ、ちょっと考えると、おかしな話じゃないですか。いつからこうなってしまったのかニッポン!

いろいろ変テコなこともあったけど、本当に元気だったのは1960年~70年代で、その頃そんなことを言う人は皆無だった。
それどころか、「夢は夜ひらーく」などと、昏いくらーい歌を、「怨歌(えんか)」といわれながら歌いあげて大流行した藤圭子なんて人もいた。
「昭和枯れすすき」や「夜へ急ぐ人」(ちあきなおみ)なんてのもあった。

後のサブカル全盛期の出発点となった雑誌「ガロ」だって、昏くて重いマンガが多かった。
映画も。
小説も。

っていうか、今から見れば「暗く」見えるだけで、当時はみんながそうだったから、なんとも思わない。
それは。。
なんていういか、人間や社会、政治、恋愛、生と死、エロティシズム、そういうテーマを掘り下げていくと、今の基準からすれば「昏い」と言われるものに、どうしたってなってしまうのです。

古事記
平家物語
遠野物語
楢山節考
雪国

みんなそうじゃないですか。


2014年も終わろうとしています。
そして意味の見いだせない総選挙が始まろうとしている。

でも、この国はいったいどこへ行こうとしているのか。
一抹の不安を抱きながら師走を迎える人は、けっこう多いのではないでしょうか。

最近、こんな本を読みました。


utida ju.png
内田樹編『街場の憂国会議』晶文社、2014年5月


この本の前トビラにこんな文章があります。

『特定秘密保護法を成立させ、集団的自衛権の行使を主張し、民主制の根幹をゆるがす安倍晋三政権とその支持勢力は、いったい日本をどうしようとしているのか? 彼らが始めたこのプロセスの中で、日本はどうなってしまうのか?』

この本の刊行から二か月後の7月1日。集団的自衛権の行使容認が閣議決定されました。

憲法改正、原発再稼働、沖縄基地問題。

もしかすると今が、戦後最大の危機なのかもしれませんね。

「空気=気分」が支配する国、ニッポン。
そういう傾向は昔からあったが、それが最大級に増幅している。

それを、この本の中で、例えば内田樹は、「株式会社化する国民国家」というタイトルで分析しています。
なんでもコスパで計算し、いかに安い費用で高い効果を得るか。そういう思考と行動がパターン化して、ひとりひとりに深く内面化している。教育や福祉の場面でさえも。

そのことと、「昏さ」避ける傾向は、関連しているのかもしれませんね。
「昏さ」は、派手な消費行動に結びつかない。

「昏さ」は、ひとりひとりが深くものを考えるということです。

書物が売れなくなったことも、このことと関連している。
本は、ひとりで孤独に、「昏く」読むものです。

歌も基本的にはそうだった。「昏く」ひとりひとりの内面に突き刺さるものだった。


続く


yjimageU3NGUUR7.jpg










nice!(1)  コメント(0) 

「上を向いて歩こう」作詞永六輔 作曲中村八大 と 寿「前を向いて歩こう」は何が違うか その1 

永六輔うえ.jpg


『上を向いて歩こう』
言わずと知れた永六輔、中村八大のコンビで作られた名曲。
1961年。昭和36年に坂本九が歌って大ヒット。
世界的にも知られる名曲となりました。

日本でも、数多くのカバーが存在します。
ぜんぶ聞いたわけではないけれど、個人的にはRCサクセション、忌野清志郎の歌うカバーが好き。

80年代初頭だったか。
まだ坂本九は日航ジャンボの事故で亡くなる前だったんじゃないかな。
清志郎はライヴの終盤「雨上がりの夜空に」を必ず歌う。
その前に挟むことが多かったらしい。
私自身も旧名古屋球場の野外ライヴで聴いた記憶があります。
「日本の有名なロックンロール!」
と叫んでから、歌っていた。

yjimageBS9MPGAK.jpg


え?
それロックなの?
と疑問に思いながらも、演奏が始まると「やっぱ、ロックだぎゃ! でぇぇらロックンロールだでかんわ!」(当時は名古屋にいたんで……)と、ノリノリで聴いていました。

まだ若かったし、歌詞の意味はそれほど深く考えなかった。
でも、年齢を経るにつれて、この歌詞が胸に、心にしみるようになってきます。


上を向いて歩こう
涙がこぼれないように
思い出す春の日
一人ぼっちの夜

上を向いて歩こう
にじんだ星を数えて
思い出す夏の日
一人ぼっちの夜


清志郎は、最後に「一人ぼっちの夜」を、少しお道化た、それでいてちょっと悲しいピエロのような歌い方でリフレインしていました。
そういえば、忌野清志郎という人は、どこかピエロ(道化師)のようなところがありますね。
少しもの悲しい、いつも涙のしずくをたたえながら笑いを誘うピエロなロックンロールシンガー。

あ、脱線したかな。。

本題は、この永六輔の詞と、「寿」(ことぶき)というバンドが歌うこの詞のパロディ「前を向いて歩こう」について書きたいわけです。

でもその前に。
英語の歌詞とも比較してみましょう。

誰もが知るように、この歌は海外で「SUKIYAKI」というタイトルで発売、有名なったのですが、このタイトル、やっぱ変ですよね。
まあその頃世界で有名な日本語というと、「スキヤキ」か「ジュード―」くらいで、柔道よりはいいだろうってんで付けたんですかねぇ。
今なら「スシ」とか「ワショク」とかになるのか。

しかし、これだけ歌の内容とタイトルが違うケースもめずらしい。
「とりあえず日本の歌ですよ、元歌は」ということだけを伝えるための苦肉の策ですか。

で、英語バージョンの歌詞は次のようになります。


It's all because of you,
I'm feeling sad and blue.
You went away, now my life is just a rainy day.
And I love you so, how much you'll never know.
You've gone away and left me lonely.

私が淋しくて哀しい気持ちなのは 全て貴方のせい
貴方がいなくなってから 私の人生はまるで雨の日のよう
こんなに私が貴方を愛しているというのを 貴方はきっと分からないでしょう
貴方は行ってしまったし 私に寂しい思いをさせている


これ、全然違うと思いませんか!
でもこれ、日本語と英語の違いなんですね。
そもそも「上を向いて歩こう 涙がこぼれないように 思い出す春の日 一人ぼっちの夜」という詞には、主語がない。誰が泣いているんだか、一人ぼっちなんだか、さっぱりわからん。男か女かもわからん。
でもまあ日本語ですから、たいていないのです、主語は。
日本語世界の住人は、これで良いわけです。その方が、万人に伝わる。
ところが。英語はそうではありません。
で、「私と貴方・IとYou」の具体的なシチュエーションを作らなければならない。

で、

思い出す春の日
一人ぼっちの夜

が、

And I love you so, how much you'll never know.You've gone away and left me lonely.
(こんなに私が貴方を愛しているというのを 貴方はきっと分からないでしょう
貴方は行ってしまったし 私に寂しい思いをさせている)

になってしまうのですが、これはちょっと違うよね~
と言いたくなります。
でも、それは言語の違い、つまりは文化の違い。文明の違いと、大げさに言ったって良いのです。

永六輔の日本語の詞は、誰もが胸に抱く「一人ぼっちの夜」を歌っている。
ラジオで永さんが話していたと記憶しますが、「思い出す夏の日」は、敗戦の日の8月15日で、「思い出す春の日」は、60年安保闘争の樺美智子の死を意味しているということでした。

詞を書いた永さんはそうだったのかも。
でも、聴く人それぞれが「思い出す夏の日、春の日」でかまわないわけですね。
聴く人それぞれの「一人ぼっちの夜」であっていい。

1961年といえば、戦後わずか16年です。
戦後すぐに「堕落論」を発表し、太宰治、石川淳などとともに一躍時代の寵児となった作家がいました。
それがこの人。

あんご.jpg


坂口安吾です。
戦後10年目、1955年(昭和30年)に亡くなっている。
その安吾が1941年(昭和16年)に発表した「文学のふるさと」というエッセイがあります。
多くの人が論じているように、私もこの文章が彼の思想のエッセンスだと思います。

それは一見すると(一読すると)、少し奇妙な文章。逆説的で、アイロニーの類かなと思ったりもしますが、実はそうではない。
安吾は、読者に向けて「えいやっ」とばかりに、ど真ん中ストレートを投げ込んだ。
そんな気がします。

それがこれ。
一部引用します。


この三つの物語が私達に伝えてくれる宝石の冷めたさのようなものは、なにか、絶対の孤独――生存それ自体が孕はらんでいる絶対の孤独、そのようなものではないでしょうか。
 ~中略~
それならば、生存の孤独とか、我々のふるさとというものは、このようにむごたらしく、救いのないものでありましょうか。私は、いかにも、そのように、むごたらしく、救いのないものだと思います。この暗黒の孤独には、どうしても救いがない。我々の現身うつしみは、道に迷えば、救いの家を予期して歩くことができる。けれども、この孤独は、いつも曠野を迷うだけで、救いの家を予期すらもできない。そうして、最後に、むごたらしいこと、救いがないということ、それだけが、唯一ゆいいつの救いなのであります。モラルがないということ自体がモラルであると同じように、救いがないということ自体が救いであります。
私は文学のふるさと、或あるいは人間のふるさとを、ここに見ます。文学はここから始まる――私は、そうも思います。
アモラルな、この突き放した物語だけが文学だというのではありません。否、私はむしろ、このような物語を、それほど高く評価しません。なぜなら、ふるさとは我々のゆりかごではあるけれども、大人の仕事は、決してふるさとへ帰ることではないから。
だが、このふるさとの意識・自覚のないところに文学があろうとは思われない。文学のモラルも、その社会性も、このふるさとの上に生育したものでなければ、私は決して信用しない。そして、文学の批評も。私はそのように信じています。(坂口安吾『文学のふるさと』、ちくま文庫版坂口安吾全集ほか、青空文庫でも公開しています)



坂口安吾は、この「文学のふるさと」に基づいて、戦後すぐに「堕落論」「続堕落論」「日本文化私観」といった名エッセイを次々発表していきます。

「堕ちよ、生きよ」という有名なフレーズは、自堕落に生きろということでは全然なく、このような「絶対の孤独」に根っこをおろした上で、この荒廃した戦後の世の中を生き抜け! というメッセージだったわけです。

私は、安吾の亡くなった6年後に書かれた永六輔の「上を向いて歩こう」にも、この「文学のふるさと」が根っこにある、と感じます。

敗戦から60年安保まで。
私は生まれていないので直接は知らないけれど、様々なことがありました。
闇市カストリ時代、アメリカ占領軍、新憲法発令、朝鮮戦争。自衛隊の前身である警察予備隊の発足。
松本清張が『日本の黒い霧』で暴いて見せた、占領軍GHQの暗躍。
東京裁判、55年体制、そして60年安保闘争。

1961年といえば、前年、池田隼人の「所得倍増計画」が発表されて、経済の時代へと突入する構えを見せ始めている時代でもありました。

三種の神器(白黒テレビ、冷蔵庫、洗濯機)が夢でなくなったのも、この頃から。
そんな経済の時代の幕開けに、どうして永六輔はこういう詞を書いたのか。

上を向いて歩こう
涙がこぼれないように
思い出す春の日
一人ぼっちの夜

上を向いて歩こう
にじんだ星を数えて
思い出す夏の日
一人ぼっちの夜


私は、アーティストというのは、時代の要求に敏感だなあと思うときがあります。
永六輔の歌詞は、1961年の大衆の何かに、直接響くものだったのでしょう。

で、ひるがえって、2011・3・11直後に、社会派バンドとして知られる「寿」(ことぶき)が、「上を向いて歩こう」のパロディ曲、「前を向いて歩こう」を歌って、話題になりました。


DSC_9168trimE69687E5AD97E585A5E3828AW500.jpg

ボーカルの女性とギターの男性というユニットですが、バンド編成で行うコンサートはけっこう迫力があります。ものすごく盛り上がる。
それは、彼らが歌に込めたメッセージが、観客との一体感を生むからです。
それはもう否定できないし、私自身、彼らのコンサートを、時にジーンとなりながらノリノリで聴いたことが何度もある。

彼らの「前を向いて歩こう」は、こんな歌詞。


前を向いて歩こう 涙がこぼれてもいいじゃないか
泣きながら歩く ひとりぼっちじゃなかった夜

幸せは空の上にはないよ
幸せは胸の中に 肝(チム)の奥に

前を向いて歩こう 涙がこぼれてもいいじゃないか
泣きながら歩く ひとりぼっちじゃなかった夜

思い出す愛する人を
ひとりぼっちじゃなかった夜


ライヴを見ていると、ボーカルの女性の「ひとりぼっちじゃなかった夜」と、ひとりぼっちじゃないことを、とても強調して歌う。
それは、あの震災後の「絆」というメッセージとシンクロして、共感を呼んだ。

まあ、ありていにいえば、そんじょそこらに転がって数多ある「復興ソング」と、なんら変わりはない。

ああ、これもまた、時代の要求に応えているのだな、と思います。

でも。これでいいのか、とも思う。
あえて「前を向き」、「ひとりぼっちじゃなかった」と強調するのは、なにかを見ないようにする、隠蔽することになってしまうのではないでしょうか。



続く








nice!(0)  コメント(0) 

昭和15年の話

220px-Expo_1940_Poster.jpg

西光万吉のことを書いていて、あることに気づきました。
それは昭和15年のこと。
この年、幻となった東京オリンピックが予定されていたことは、だいぶ前に書きました。
日中戦争の激化、次の年は日米開戦ですから、とてもとても五輪どころではない。
東京五輪は、開催権返上というかたちで、結局中止になりました。

そしてこの年は、皇紀2600年でもあったんですね。
明治維新直後に計画され、半ばごろから建設が始まった橿原神宮。
ここは神武天皇を祀っています。その神武天皇即位から2600年を祝うということで、
皇紀2600年祭が、これは大々的に開催されました。

当時の人口7千万のうち、1千万人が参拝したといいます。
すごいですね。

kindai tyennousei.png
高木博志『近代天皇制と古都』岩波書店


この本は、近代天皇制と、大日本帝国という近代国家による古都奈良の都市計画について、とてもていねいに記述されていて、さまざまに刺激を受けました。

例えば、こんなこと。


『幕末までは、大和国高市郡の田んぼの真ん中に、畝傍山がぽつんとあった。それが文久3年(1863年)に畝傍山北東の小字ミサンザイに突如盛り土がされ、円墳の神武天皇陵が築かれる。1880年代には、皇室の財産として畝傍山が買い上げられ、植樹されてゆく。そして1890年(明治23年)には橿原神宮が立憲制の出発にあわせて創建される。畝傍山・神武天皇陵・橿原神宮の三位一体の畝傍山山麗は、近代を通じて、神武「聖蹟」の清浄な空間として整備されていく。
~中略~ 
 神武天皇をめぐる畝傍山の「聖蹟」が近代に創り出される背景には、明治維新の理念である神武創業を視覚化し、その地に国民の崇敬を集め、参加・動員をはかろうとする意図があった。』


このようにして「神武『聖蹟』の清浄な空間」は、国家の意図として、新しく作られていったのですね。
これは、伊勢神宮にも、実はいえること。

そして、昭和15年。
この年、冬季オリンピック(札幌)も、東京夏季五輪と同時に計画されていたのです。
さらに東京万国博覧会も!

皇紀2600年祭
東京夏季オリンピック
札幌冬季オリンピック
東京万国博覧会

これらのビックイベントが、四つも昭和15年という年に開催されるハズだったのです。
ビックリですね~。

これらのうち、開催されたのは、皇紀2600年祭のみ。
昭和ひとけた生まれの方なら、きっとご記憶に刻まれているのでしょう。

ちなみに、オリンピックは夏季冬季、両者とも中止(開催権返上)になりましたが、博覧会は「延期」でした。
でも、実はチケットが先行販売されており、1970年の大阪万博のときにそのチケットが使えたというから驚きです。

東京五輪は1964年。
札幌は1972年。
これでぜんぶのリベンジが完成しました。

で、昭和15年のことは、案外みんな話題にしないわけですが、これ、けっこう考えなきゃイカンことが詰まっているような気がするのです。                     


kouki.png
ケネス・ルオフ『紀元二千六百年 消費と観光のナショナリズム』

皇紀.png
指南役『幻の1940年計画』


この二冊は、同じ昭和15年の「四つのイベント」のことを書いているのですが、ぜんぜん内容が違います。
外国人の作者は、戦前の近代日本のある種のピークとして、昭和15年をとらえています。
もちろん翌年から敗戦まで、真っ逆さまに落ちていくピークです。
それを、「消費・観光・ナショナリズム」で説き明かしている。
どのようにして国民を巻き込んでいったかが、ようくわかります。

後者は、「戦前が《暗い時代》なんてウソです。戦前の日本って、けっこうすごいんです、誇っていいんです」っていう本です。

見る人、見方によって、こんなにも変わる昭和15年。
なんだかフシギな気もします。
これって、この国だけなのか。どこでも同じなのか。

ノモンハン戦争は前年の昭和14年(1939年)。
国家総動員法が制定されたのは、昭和13年。
治安維持法は翌年の16年3月。そして12月に日米開戦。
もちろん日中戦争は昭和12年から続いています。

そんな中での、昭和15年。計画された四つのビックイベント。
これをどう考えるか。

平成20年の東京オリンピック開催で浮かれていないで、戦前の昭和15年の意味を、真面目に考えなきゃと思います。
じゃないと、またまた足元すくわれて、あれよあれよという間に……。



c1a07da8.jpg





nice!(0)  コメント(2) 

ショート話 皮革産業資料館の弾左衛門

弾左衛門展示本.jpg


昨年の8月に「台東散歩 8」という記事を書いたのですが、そこに貼った写真です。
台東区橋場の皮革産業資料館に展示されている『浅草弾左衛門』全三巻。

過去のブログはこちら → http://shiomi-senichiro.blog.so-net.ne.jp/2013-08-04

皮革産業の歴史から現在まで、多くの展示品で説明してくれて、知識としてだけでなく、目でも楽しめる充実した資料館でした。
浅草弾左衛門の展示がいっさいないことを除いては。

そう、いっさいない。
弾左衛門の「だ」の字もない。

というのはウソで、多くの皮革産業関連書籍が納まったガラスケースの中に、塩見鮮一郎著、小説『浅草弾左衛門』全三巻があったのです。

これだけは展示されていた。
これだけ。
私はケースの前で立ち止まって、しばらく呆然と本の背表紙を眺めていました。
なんだか象徴的なシーンとして、記憶に残っています。


で、最近この写真をなんとなく眺めていて、重大なことに気づいてしまいました。

なんと!
これ、全三巻ではなくて、右端は資料篇だったのです。

参ったなあ。。

担当者は分かっていて置いているのか。
私もずっと、全三巻だと思っていたし、「わかんないでしょ、どうせ……」ということなのか。
それとも、担当者も気づかなかったのか。

あるいは。

担当者が「お、なんだこれ、面白そうだな」と思い、第1巻「天保青春篇」から読み始め、第2巻「幕末躍動篇」でコーフンし、ちょうど第3巻「明治苦闘篇」の、老いた第13代弾左衛門こと矢野直樹が亡くなる場面を、仕事をさぼって隅田川の公園のベンチで読みながら涙してるときに、たまたたま私が資料館に入ってしまったのか。

どこへ行ったか、第三巻。

気になります。
真相を究明するため、近々足を運ばねばなりませんね。

ついでに、どうして弾左衛門の展示がないのか、聞いてみようと思います。







nice!(1)  コメント(4) 

『江戸の貧民』を歩く

IMG_2196.JPG

昨日は、文春新書『江戸の貧民』(塩見鮮一郎著)を歩く会。
本を片手に、地下鉄小伝馬町駅から散歩を開始しました。

小伝馬町は、江戸の牢牢屋敷があったところ。代々世襲の牢屋奉行、石出帯刀が管理していました。
ウィキで引くと、

初代の石出帯刀は当初大御番を務めていたが、徳川家康の江戸入府の際に罪人を預けられ、以来その職を務めるようになった。石出左兵衛・勘介から町奉行に出された石出家の『由緒』によると、当初は本多図書常政と名乗っていた。後に在所名に因んで石出姓に改めたとされているが、現在の千葉市若葉区中野町千葉中の石出一族の出身。本来石出帯刀とは、一族の長の名である(『旧妙見寺文書』)。慶長18年9月3日(1613年10月16日)没。法名は善慶院殿長応日久。台東区元浅草に現存する法慶山善慶寺の開基はこの初代帯刀である。石出姓は、千葉常胤の曾孫で下総国香取郡石出(千葉県東庄町石出)を領した石出次郎胤朝に由来する。

とあります。千葉氏から出ているんですね。
初代弾左衛門のように、家康入府のとき、家康から役職をもらっている。そして江戸期を通してずっと世襲。でも、こちらは賤視されていたわけではない。
今日の散歩の先生でもあり、著者の塩見さんに、「牢屋奉行なんざ、ずいぶんアコギな職をもらったものですね」と言うと、「いや、むしろ名誉職だよ」とおっしゃいました。
確かに、現在の刑務所長だって、社会的な地位は高いわけだし、江戸時代はワイロし放題ですから、実入りも悪くない。なるほど……と納得します。


IMG_2198.JPG


江戸には懲役刑がないので、牢の役割は今の拘置所に近い。
そして、死罪が決まれば、ここで首を切る。いったい何人の首がここで飛んだのか。
かの吉田松陰も、ここで首を切られ、小塚原に葬られました。葬られたといっても、当時は国家的犯罪者扱いですから、穴ぼこに放り込まれ、土をパッパとかけておしまい。
そんなシーンが小説『車善七』の中にも出て来ます。もっとも、その光景は、首と胴体を伝馬町から小塚原まで運んだ、賤民たちの視点で書かれますけど。


IMG_2207.JPG


そして、小伝馬町からかつての神田橋本町へ。
ここもウィキで引くと、

東神田一丁目は、かつて神田橋本町と呼ばれ、非人系部落があったが、1881年の火災で全焼。以後、被災者たちの現地立ち入りは当局によって禁じられ、1902年の立ち退き命令を最後に、鞣し業に従事していた部落民たちは荒川区の三ノ輪付近や墨田区の木下川地区に移転を余儀なくされた。

とあります。
非人系部落とありますが、『江戸の貧民』では願人坊主が多く集住していたと書かれています。
願人坊主って、あまり耳慣れないかもしれませんが、江戸にたくさんいたんですね。
住吉踊りや金毘羅行人を演じて、布施をもらう。
「ぽくぽく、どんどん、がんがん」とか「かっぽれかっぽれ」などと言って踊る。
ほとんど裸で踊る「すたすた坊主」なんて愉快なのもいたらしい。
それが、1881年の火災で焼け出されるまで、ここ橋本町に集住していた。
明治14年ですね。

もうそれから100年以上が経ってますから、何も残っていないだろうと思ってたのですが、土地の記憶はいつまでも残るんですね。


IMG_2206.JPG


この後、神田川が隅田川に合流する河口にかけられた柳橋を見て、かつての芸者さんを幻視しながら、両国橋を渡り、江島杉山神社へ行きました。
杉山検校のいたところです。
ここは、以前このブログに書いたので、今日は省略。


IMG_2214.JPG


堅川河口からは、隅田川へ下りて遊歩道を散歩しました。
これは、新大橋の江東区側の橋のたもとです。
これぞ「現代の貧民」を象徴する写真ですね。
たとえ橋の下でも、住ませてやるものか、とイジワルをする。
誰が? 行政が、です。
善良な市民も特に何もいわない。むしろ当然だと思っている。
公園のベンチも寝かせない。川べりも橋のたもとにも住まわせない。
ほどこしを受けるくらいなら、働け。しからずんば、死ね。
というのが、現代社会です。貧民はどちらの側か。

すたすた坊主で生きていけたらな。
ぽくぽく、どんどん、がんがんと、鳴り響く町が、なんだか懐かしく思えます。

みんな違ってみんないい

とか、

人生いろいろ

などと言うけれど、ほんとうは逆で、みんな同じ原理に縛り付けられているんじゃ、ないでしょうかね。













nice!(0)  コメント(6) 

勝手に書評、塩見鮮一郎『江戸の貧民』文春新書

無題.png DSC_0105.jpg


「得がたい不思議な世界、世界のどこにもない社会」

それがほんとうの江戸だと「まえがき」で著者は書く。
え!? 江戸ってそんなにユニークなの!? 私たちが知っているつもりの江戸とは違うの!?
そう思うのなら、ぜひこの本をひも解いてもらいたい。
私たちが知っているのは、せいぜい武士と武士にからむ町人たちの江戸であって、江戸のごく一部を切り取って見ているにすぎない。

江戸は、もっともっと豊饒な世界だ。
豊饒とは、清濁併せ呑んだという意味で、著者も「美醜、貧富、賢愚、開閉、豪柔、浄穢などが複雑にいりまじって」と書いている。「身分外身分の存在が江戸という社会を、さらにユニークなものにしている。そこまで視野をひろげないと、時代の全体像をえがけない」とも書いている。

この本は、江戸にタイムトリップして、浅草弾左衛門や車善七、乞胸頭山本仁太夫に、江戸の町を案内してもらうというスタイルで書かれている。
彼らにガイドされながら「江戸の貧民」たちの生活を眺め、歴史的背景などの説明を受けることになる。
トリップを終えてふと「現代の貧民」の有り様を見ると、いかに薄ら寒い状況にあるかがよくわかる、という仕掛けも最後に用意されている。

私たちは、来たるべき未来についてのイメージが明確に描き切れないまま、自己責任的競争社会に放り込まれているが、本当にそれで良いのだろうか。
未来が描けないのは、過去をきちんと見つめてこなかったからではないか。
明治維新期に社会が激変したとき、早急に切り取って歴史の闇に埋没させてしまったもの。
それらを切り捨てて、近代150年を突っ走ってきたが、ほんとうにこれでよかったのか。
最後にそんなことをいつも考えさせられるのが、近年の著者の本の特徴でもある。

嗚呼。私は、著者が言わなかったこと、書かなかったことまで言いたい。
江戸の人々は、現代の私たちよりも幸いである、と。
困窮者に布施を施すシステムが出来上がっている社会と、学校で酷いイジメにあった少年が空き缶拾いで食いつなぐホームレスを金属バットでボコボコにする社会と、どちらが云々するのもむなしいではないか。

「江戸に帰れ」とはいわないし、どだいそんなことは不可能である。
だが、江戸のよいところ、魅力的なところ、我々にはないもの、は取り入れたい。
そしてせめて、イジメにあった少年が、河原で暮らすホームレスの窮状に思いをはせる想像力がじゅうぶんに養われるくらいに、この社会を「豊饒な江戸」の方に引っ張りたい。
そんなことも、考えさせられてしまった本だ。


imageCAAQ3SWK.jpg



nice!(0)  コメント(4) 

文春新書『江戸の貧民』を歩く、読む、呑む会

IMG_2079.JPG


塩見鮮一郎さんの新刊、文春新書『江戸の貧民』が出たので、こんな会をやろうと思いつきました。

日時 2014年9月27日土曜日 午後1時

集合場所  日比谷線小伝馬町駅A2出口

コース
 
小伝馬町牢屋敷跡 → 旧神田橋本町 → 両国橋を渡り、江島杉山神社 → 隅田川左岸を歩き
→ 芭蕉庵跡を見て、

すぐ近くのカフェそら庵へ 読書会(珈琲つき)

そら庵 食べログはこちら→http://tabelog.com/tokyo/A1313/A131303/13097306/

終了後作家サイン会   

ここまでの参加費500円


二次会 午後4時~

魚三酒場 常盤店二階お座敷(森下駅近く)

※おひとり3000円のコース料理プラス酒代になります。(料理が多めですが、生もの以外はお持ち帰り可です)

雨天の場合は、小伝馬町から都バスで「そら庵」に移動して読書会、魚三二次会という日程になると思います。



『江戸の貧民』は、好評の文春新書「貧民シリーズ」第三弾です。
2014年8月刊。

無題.png

また、以下の本も参考にしてください。
『貧民の帝都』文春新書、2008年9月
※橋本町の地図が135ページに掲載(追われる願人坊主)。

貧民の帝都.png


『江戸の非人頭 車善七』河出文庫、2008年9月
※江島杉山神社についての記述あり(第三章「座頭離反」、P117の地図など)

非人頭.png


秋の好天に恵まれればいいですね~









nice!(0)  コメント(2) 

奈良県、御所市柏原の西光寺 番外編

DSC_0063.jpg DSC_0069.jpg

スマホで撮った写真がどうしてもタテにならないので、すんませんこのままで。

今日は番外編。
西光寺に行く前に、大和八木のビジネスホテルに泊まったのですが、その夜五条市で花火大会があるとのこと。調べてみると、近くのJR畝傍駅から30分ほどで行けるらしい。
それじゃあってんで、荷物を置いてシャワーして、のこのこと出かけました。

田舎育ちなので、子どもの頃、川べりでのんびりと花火を見た記憶がよみがえります。
東京の花火大会ってすごい人でしょう。もうそれが普通になっちゃいましたが、隣の人との距離が詰まり過ぎ。トイレの待ち長蛇の列、長過ぎ。
2万発もの花火が見られるのは、田舎では経験できませんが、それにしてもねえ。。

昔の田舎は、河原にポツポツと人が集まって、のんびり見ていました。
花火の発数は少なくても、かえって花火と花火の「間」がよかたりします。
どかどかド派手なのも興奮しますが、なんだか本来のお盆の「送り火、迎え火」としての花火の意味が薄れてしまって。

ひゅるひゅるひゅる……どーーーん!! ぱぱん!!
(しばらく間)
ひゅるひゅるひゅる……どーーーん!! ぱぱん!!

この繰り返しが好きなんですけど、ワタシ的には。
夜空の向うの亡くなった人たちといっしょに見ているようで。妙にしんみりとしたりします。
それに、おしっこしたくなったら、そこらへんで……。なんてのも全然、ね。OKでしたね。

で、畝傍駅に着きました。
お、人もそんなにいないな。やっぱ田舎はいいな。
と、ナメたことをぼんやり考えていたら、ガツンとやられました。

JR和歌山線に乗り換えた高田駅から乗った電車は超超混雑。東京のラッシュアワーなみです。
浴衣を着た若者、中学高校生が圧倒的に多いけど、ファミリーもけっこういる。
駅を降りて、会場まで行くと、要するに老若男女、みんなまとめて花火に行くぜ!
とばかりに人が集まっています。
河原は人人人!! で埋め尽くされていました。
この日は8月15日、この花火大会は、お盆の一大ビッグイベントだったのですね。

ま、それはそれで良いのですが、会場入り口の看板に「音と光のスぺクタル花火」とかなんとか書いてあるではないですか。
「え、まぢか……」
いや~な予感がしました。
あのう、音楽つきの花火って、ワタクシもっとも嫌いです。
スイカに生クリームぶっかけるようなもの。
寿司を天ぷらにするようなもの。
ああ、どう表現していいか分からない!!
とにかく、花火は、ひゅるひゅるひゅる……どーーーん!! ぱぱん!!
この「音」が大事ですから。それを音楽でかき混ぜるなんて!! ヤメテクレ。。
しかも、「光のスぺクタル」ともあります。
嗚呼、来なければヨカッタ。

しかし、予想に反して、最初の三十分は普通に素敵な花火が続きました。
東京のように発数が多くないので、きっちり「間」も取れています。

でも、これじゃあ地味と判断されちゃうのか。
ちょこっと休憩が入り後半になると、とうとう始まってしまいました。
「音と光のスぺクタル」というヤツが。
レーザー光線が飛び交い、デカイスピーカーで、吉野川の河原は東京のディスコ、今はクラブか、えいどっちでもいいや、とにかくズンドコズンドコ音楽が鳴り響きます。
その中で、打ち上げ花火。嗚呼、悲しい。やっぱ来るんじゃ、なかった。(涙涙涙)
文字にするとこんなかんじ。

ズンドコズンドコ、ひゅるひゅるひゅる、ギュイーンギュイーン、どーーーん!! ズンドコズンズン、ぱぱん!! ぱん!! ありのままの~、ありの~ままの~~ ひゅるひゅるひゅる、ぐゆいーん、どーーーーん!! すがたを見せるのよ~ ありの~、ままの~ ズンドコズンドコ

あ~、書いているだけで疲れてきました。
そう。最近流行りののディズニー映画の音楽まで、お盆の花火に混ぜこんでいるではありませんか。
これではご先祖様も、呆れてあの世に帰ってしまいますね。

そんなわけで、また大混雑の列車に揺られ、這う這うの体でホテルまで帰還したのでした。

でも。
今から考えると、コンクリートで固められた西光寺の門前と、この花火大会。なんだかおんなじような精神から出てきた現象なのかもしれませんね。
それはなんだろう。
ちょっと、ゆっくり考えてみたいです。





nice!(0)  コメント(4) 

奈良県御所市、柏原の西光寺 その2

IMG_2016.JPG

現在の西光寺です。西光万吉が生まれ育ったお寺。浄土真宗本願寺派(西本願寺系)です。
川を挟んで向かい側、水平社博物館の2階ベランダから撮りました。

この瓦屋根に幼い清原一隆(西光万吉)がよじ登ったのは、生まれて初めて学校で差別体験を受け、そのショックから逃れようと、普段はしない冒険をしてみたからでした。

小鳥が手のひらに乗ってきたとか、蛇をふところに入れて可愛がっていたとか、とかく心の優しい少年というエピソードに事欠かない一隆少年です。でも、よほど悔しかったのか、このときばかりは冷静さを欠き、さほど運動神経がよいわけでもないのに、大げさに言えば命をかけての大冒険に踏み切ったのでした。

私には、一隆少年の気持ちが、なんだか分かるような気もします。
子どもの成長の過程で、自分という存在と、自分を取り巻く世界との位置関係を知りたい、そんな欲求にかられるときってありますね。父母の先祖はどんな人間だったのか、偉かったのか、そうでなかったのか、とか。どこの出身で、どんな階層で、何をなしたのか、とか。

このときの一隆少年は、土地に色濃く浸透しているいわゆる「部落差別」を受けたわけですから、自分と自分の生まれた寺が、山々に囲まれた奈良盆地の中のどんなポジションにあるのか、この目で確認したいという無意識の欲求にかられたのではないでしょうか。
ましてや、少年の頃の西光万吉は、「アニボン」と村の人たちからも呼ばれる、寺の正当な後継者として育っています。後の水平社運動の過程でこの立場を放棄しますが、まだこのときは清原一隆、西光万吉自身も、寺を出ていくなど考えていなかった。

小説『西光万吉の浪漫』から引用します。

 南の遠くは吉野の山で、西に目を向けると、金剛山に葛城山だった。田や畑が山裾にたどりつき、春霞にとけこんでいる。
 広大な光景に圧倒されているうちはよかった。棟がわらから、からだを乗りだして、近くをのぞき見ると、一隆は自分があまりにも高いところにいるのに、改めて恐れた。
 正面近くには、もうひとつの国見山が松の木をうっそうと茂らせていた。そこからこちらにかけて土地がどんどん低くなり、いちばん深いところを満願寺川が、右から左へと流れている。寺から川までは三十メートルとない。そこをわら屋根が埋めている。
 むかしの岩崎村、いまの北方は、ほうまがおかの山すそからその川までのほんとにせまい土地しかなかった。対岸はもう柏原村で、川をはさんで西光寺とむかいあう位置に神武天皇社があった。あそこへ、九州日向の高千穂から、カンヤマトイワレビコノスメラミコト、つまり神武天皇がやってきて即位した。それが西暦の紀元前660年で、皇紀はそこを起点にして数える。ことしは、二千五百六十一年になるのだ。


写真に川は映っていませんが、寺の正面に橋が見えます。この下が満願寺川。
橋の上から撮った写真がこれ。

IMG_2034.JPG

タテに流れているのが満願寺川。その支流になる細い流れが本馬川です。二つの川が合流し、西光寺の前を流れてすぐ、一級河川曽我川に注ぎ込みます。

つまり、三つの川に囲まれるように、西光寺は建っている。
門前は、今は何もないコンクリートの広場ですが、当時はわら屋根の家屋が密集していた。柏原北方と言われる土地です。川の向うは中方。
北方は、確認されうるだけで室町以来といわれる古い部落です。皮をなめしたりと、大量の水を必要とする皮革産業をずっと営んできた。だからこそ、川が三つも重なるこの土地に、北方はあるわけですね。

私も、一隆少年にならって葛城山や金剛山を仰ぎ見てみたいと思い、西光寺の門前で背伸びをしてみましたが、山々の全貌はもう見えません。私の背たけが低いのと、周りに高い建物が出来てしまったからです。西光寺にお願いして瓦屋根によじ登らせてもらうわけにもいかないし……。(それ、ほんとうはやりたかった!)

しかし、一隆少年の気持ちを想像することは出来る。

一隆少年の生まれ育った西光寺や、盟友阪本清一郎の実家は、部落の中の富裕層です。でも、その他の部落民は、みな一様に貧しい。皮革や下駄職人などが多かったようです。学校に行くと、それが蔑視の原因になる。いや、北方に住んでいることそのものが、差別する根拠、いわゆるスティグマでした。

一隆少年は、「なんやおまえは、岩崎(柏原北方のこと)のエッタのくせに、ええかっこして」と学校でいわれました。

でも、どうなんだろう。
地面を離れ、高いところによじ登ってみると、皇紀2561年の神武天皇社が見える。畝傍山の近くに巨大な橿原神宮があるが、実はこっちが本当に即位した場所だ。背後に国見山があるし、目の前にも、もうひとつの国見山がある。
神武天皇が、自分の治めたクニを国見した。万葉集に「天の香具山登り立ち国見をすれば……」とある、あの国見だ。かの本居宣長でさえ、「畝傍山の近くに橿原という地名はなく、一里あまり西南にあることを里人から聞いた」と言っているではないか。
それに、山岳修験道の開祖、役小角が住んでいた葛城山も見える。鬼神を自由にあやつり、時の権力者を畏れさせた役の行者、神変大菩薩だ。
葛城のふもとには、一言主神社もある。
記紀神話では、雄略天皇が狩をしていると、向う側の峰に現れたのが一言主の神で、「我は、悪事(まがごと)も一言、善事(よごと)も一言、言い離つ神である」と名乗り、大悪天皇と恐れられた雄略帝が弓矢を捨ててひれ伏したと言われる神だ。

こんなふうに一隆少年が想像をふくらませたどうか、定かではありませんが、歴史というよりも、神話時代へと一気に思考が飛躍する、そんな土地であることは間違いないようです。特に、理想主義的な傾向を生涯持ち続けた清原一隆、西光万吉のような人物には。

ただ、ここらへんから、私の想像力はパタリと停滞してしまうのです。


IMG_2058.JPG


これが一言主を祀る一言主神社。
ここに、土蜘蛛の塚がありました。


IMG_2057.JPGIMG_2072.JPG


参道の途中と境内にあります。
上が参道。下が境内にあった蜘蛛塚です。
雄略天皇が武力で滅ぼした、もともとこの土地に住んでいた氏族のことを指して「土蜘蛛」と呼んでいた。その体を真っ二つに分断したという塚です。
そもそも、一言主の神もまた、侵略して来たヤマト民族に制圧された、土着の民族の神であるかもしれない。

西光万吉、幼い少年清原一隆は、一言主神社のこの蜘蛛塚を、いったいどういう目で見つめていたのだろうか。
それに、なかなか私の貧弱な想像力が届かない。
どうにもこうにも、わからないのです。

水平社宣言、水平社運動と続けた後に、「高次的タカマガハラ」を唱えた西光万吉。
それは、アマテラスを中心に据えた原始天皇制社会主義です。これも正直、よくわからん。

それに、柏原北方の部落は、いわば虐げられた土蜘蛛の側ではないのか。



続く










nice!(0)  コメント(3) 

奈良県御所市、柏原の西光寺 その1

先週、奈良へと旅してきました。
いったん名古屋で新幹線を降り、在来線で実家に行って、ちらっと両親の顔を見て、親不幸者はさっさと近鉄名古屋駅に舞い戻ります。

IMG_2014.JPG


はい、出ました近鉄特急。
新しい車両もあるのですが、例によって昭和の特急車両に乗れました。
いいですね~、この鉄の車両の重厚な感じ。叩くと、コンコンといい音がします。手が痛いくらい。これぞ「ザ・鉄道」です。
でも、近鉄の特急は、車内販売がないのがちょっと残念。真ん中の通路が狭いので無理なのかな。
名古屋から大和八木まで、二時間近い長旅。駅で買い込んだ缶ビールも、ぬるくなってしまいました。
近鉄名古屋駅のホームで販売している「手羽先の風来坊」の手羽先を、キンキンに冷えた缶ビール片手に、手をベタベタにしながらかじる。これがやりたかった!

超余談ですが、名古屋には二大手羽先から揚げチェーン店があります。
「世界の山ちゃん」は、東京にも進出して有名ですね。
でも、実は「風来坊」の方が、名古屋人は好きな人多いですよ。「でぇら、うみゃあでかんわ!」というやつです。

ま、それはさておいて。。

旅の目的は、西光寺と水平社博物館を訪ねること。
ミーハーなので、こんなものを買ってしまいました。

DSC_0084.jpg

水平社宣言と水平社創立大会のチラシです。
当時のものを模して作られています。大正時代のアツい雰囲気が出てますね~。
いいでしょ、これ。
え?別に羨ましくない?
あ、そうですか……。

そんなこともさておいて。

水平社や西光寺のことは改めて書きます。
今日は、葛城山のふもと一言主神社や、水平社博物館の隣にある神武天皇社について、ひと言書いておきましょう。
なぜなら、西光万吉という人を知ろうとするとき、西光寺のある部落「柏原の北方」の土地的情念、いわゆるトポスというやつですね、これがどうにも気になって仕方がない。
で、こればっかりは、実際に行かないとわかりませんね。
というわけで、お盆に帰省したにも関わらず、さっさと近鉄特急に飛び乗って、風来坊にビールの親不孝者と相成ったわけです。
あ、もちろん、その日は大和八木で宿泊。アルコールを抜いてから翌日の朝、行きましたよ。


IMG_2048.JPGIMG_2053.JPG


上が柏原の神武天皇社。下が橿原神宮です。

橿原神宮は、ウィキによると、

『記紀において初代天皇とされている神武天皇を祀るため、神武天皇の宮(畝傍橿原宮)があったとされるこの地に、橿原神宮創建の民間有志の請願に感銘を受けた明治天皇により、1890年(明治23年)4月2日に官幣大社として創建された。』

とありますね。
明治近代国家の黎明期、神武天皇を初代として祀り上げ、その末裔の明治天皇を国家の君主としたわけですから、ムズカシイ字を書くカシハラ、橿原の神武社は広大な土地に超豪勢な造りです。景観が伊勢神宮にそっくり。
「橿原」と、表記の漢字まで差別化特別化して、権威を上げているのですね。
ムズカシイ字を書くと、「お、なんか凄い」と思ってしまう、小学生のような発想ですな。

それに比べると、簡単な字を書くカシハラ、柏原の神武天皇社は超質素でこじんまりとした神社です。
ちなみにこの「柏原」は、カシワバラ、カシワラ、カイバラとも読み、関西を中心にあちこちにある地名です。
名字にも多いですね。南海、日ハム、阪神で活躍した柏原(カシワバラ)純一というプロ野球選手、覚えている人いるかなあ。初期西武の「左殺し」、左投げのピッチャー永射保の敬遠球を「大根斬り」の一振りでホームランにしたのは、1981年の九州平和台球場でした。当時15歳だった私は、佐々木信也のプロ野球ニュースで観て、大興奮したのを覚えています。

あ、これも超余談。

柏原の神武天皇社。こちらがもともとあった本当の神武天皇社であるという説もあります。これは、あの有名な国学者、本居宣長大先生がおっしゃっているのだから、まんざらでもありません。
境内に、こんな掲示がありました。

IMG_2050.JPG

PCならクリックすると読めます。
気になる記述がありますね。
写してみますと、

『祭神は神倭伊波礼毘子命(カムヤマトイワレヒコノミコト)で初代神武天皇の即位した場所であるといわれる。享保21年(1736年)の大和誌には「柏原宮、柏原村に在り」と記し、本居宣長も明和9年(1772年)の「菅笠日記」に、「畝傍山の近くに橿原という地名はなく、一里あまり西南にあることを里人から聞いた」と記している。言い伝えによると、この地が宮跡に指定されると住民が他に移住しなければならなくなるので、明治の初めに証拠を書類をすべて焼却して指定を逃れたという』

これが本当なら、明治近代以降の天皇制にとって、ただならぬ真実のような気もするのですが。
特に騒ぐ人もいないようです。
後半の言い伝えは、橿原神宮近くにあった「洞部落」の強制移転問題を想起しますね。
大正時代、橿原神宮は、国家神道の重要施設として、本格的に開発され大規模化していったわけですが、そのとき「負傷醜ろうナル家屋ノ見下スコト」などといって、強制的に移転を余儀なくされた問題です。後の部落解放運動などから批判され、この事件そのものが有名になりました。

もし、明治初期に「ここが本当の神武天皇社である」と主張しようものなら、室町時代から住んでいたとされる柏原北方の部落民は、強制的に移転を迫られる。そう考えたのも当然でしょう。

ただし、洞部落の件については、辻本正教という人が「強制移転ではなく、開発に伴って自主的に移転を決めた」という反証を展開しています。
この人は、移転後の洞部落に生まれ育った人で、解放同盟のおえらい人でもありますが、「ケガレ」についても興味深い説を唱えています。

辻本正教.png
『ケガレ意識と部落差別を考える』解放出版社、1999年


で、この反証については『洞村の強制移転ー天皇制と部落差別』という本を上梓しています。
私は未読ですが、この問題については、「聖と賤」という二項対立で安易に論じられる傾向が強く、そう単純な問題ではないよ、ということなのでしょうか。

西光万吉の育った西光寺の裏には、「ほうまがおか」という小さな山があります。
小説『西光万吉の浪漫』には、こんなふうに書かれている山です。
まだ小学校に入学したばかりの西光万吉(本名・清原一隆)が、初めて学校で差別を受け、ショックを解消しようと、本堂の瓦屋根によじ登っているシーン。

 本堂の裏手へ走った。そこにはもう、ほうまがおかが迫っている。
 ほうまがおかは、ほんまやまともいった。嗛間丘、本馬山と書いた。高い山ではないから丘と呼びならわされたのだろう。ただ、低くても、平地のなかにぽっかりと盛り上がっているので、眺めがよい。神武天皇がここにのぼり国見をしたのがうなずける。その故事のため、ほんまやまは、望国山(くにみやま)という名も、もらっている。
塩見鮮一郎『西光万吉の浪漫』16頁

やはり、神武天皇とは縁の深い土地なのですね。
西光寺から、葛城山、金剛山の雄姿が眺められます。今は周囲の建物が高いのでダメですが、幼い西光万吉がよじ登った本堂の屋根瓦からは、葛城山、金剛山の全貌が見渡せたことでしょう。
もちろん、神武が平定したという両山のふもとから広がる奈良盆地も、よく見えたハズです。国見と言われるのもむべなるかな、ですね。

こういう土地の被差別部落の寺院に、西光万吉(清原一隆)は生まれたのでした。
ケガレという目に見えぬ無根拠なスティグマを背負って。

幼い一隆の目に、葛城山の一言主神社やそこにある土蜘蛛塚などは、どのように映っていたのだろう。

次回は、そんなことを考えてみたいと思います。


続く














nice!(0)  コメント(4) 

西光万吉という人

八月は、ヒロシマ、ナガサキ。そして敗戦の日。
またヤスクニでひと悶着あるのでしょうか。
オキナワ、フクシマも、まだまだ続きます。

それにしても首相の演説はひどかったですね。いわゆるコピペ問題。
日本の劣化。コトバの劣化。

二回目のラブレターを、半分はコピペで済ませて出しますか?
しかも、もう半分は自画自賛の政策自慢。周辺国だけでなく、同じ党内でも懸念を抱く人が多いというのに。。
これでは、思いを寄せる女性にフラれるに決まってる。
たとえフラれても、「お、こいつ俺に惚れてんな」的な勘違いをするのでしょうか。


そんなことはさておいて。

お盆休みを利用して、奈良へ出かけようと思います。
この人について調べるため。

IMG_2006.JPG


西光万吉さんです。
写真の真ん中の青い装丁の本が、塩見鮮一郎著『西光万吉の浪漫』、解放出版社、1996年。

ちなみに、『西光万吉集』という1冊の全集本が出てまして、それがこれ。

saikou.jpg

解放出版社、1990年。
装丁が似ているし、同社の同じ企画で出来た本なのかもしれませんね。

西光万吉集はもうひとつありまして、 濤書房という出版社から1971年、4冊の『西光万吉著作集』が出ています。
これは、西光の没後わずか一年で、友人であり幼なじみであり、水平社設立時からの同志でもある阪本清一郎等によって刊行されました。
(その他、北川鉄夫、木村京太郎、難波英夫が監修に加わっています)

いま私の手元には、この4冊の著作集がデンと積んであります。
西光万吉さんについては、これから少しずつ書いていきたいと思いますが、ひとまず私の目を引いたのが、この著作集に収められている西光万吉の奥さんの言葉。
「夫・西光の思い出」というタイトルで、第三巻巻末にあります。
西光万吉という人となりが、近しい人ならではの言葉で語られていて、とても引きつけられます。

西光万吉.jpg


これは、西光万吉が「水平社宣言」を起草していた頃。27歳くらいか。
線の細い、神経質そうな顔立ちです。
実際、身体が弱く、病気がちで、いつも欝々として、死のことばかり考えているような青年だったそうで。
しかし、とびっきりの理想主義者でもあったのです。
それは、水平社宣言として一気に爆発しますが、その話はいずれ詳しく。

今日は著作集にある奥さんの言葉を紹介しましょう。

西光万吉は、意外に大酒飲みでした。
でも、酔っぱらって大トラになる、というようなことはなかったらしい。(ウラヤマシイ……)

(西光は)お酒が大好きでしたが、お酒を飲むと愉快になって、いろいろの話をしてくれるので、私までが西光がお酒を飲むとたのしくなるのでした。でも西光の酒は場所を選び、自宅や親しい人、親戚の家などで心おきなく頂くとすぐ酔ってたのしくなるのに、料亭などで飲むと、一升飲んでも二升飲んでも酔わないとのことでした。
                                  (夫・西光の思い出)

へえ~。こりゃ本当に大酒飲みだ。
このあと、若い西光が奈良の国粋会のメンバー20人ほどと酒を酌み交わしたエピソードが語られます。屈強な右翼青年たちと、痩せてひょろひょろの西光万吉の酒対決。どう考えても、西光に勝ち目はない。
ところが。
奥さんによると、国粋会のメンバー最後のひとりが酔いつぶれても、西光ひとりひざを崩さず正座したまま飲み続けたそうで。「西光さん、あんた国粋会の人たちを呑んでしもうたそうですね」と、評判になったのだとか。

この奥さんの文章の最後が、私の心をぎゅっとつかんでしまいました。
次のように締めくくられています。

酒のみであり、思想的には右からは「赤」だと言われ、左からは「ファッショ」だ、「転向者」だと悪評もされましたが、私が三十年を通じて傍らで見てきた人間西光は、妻馬鹿と笑われるでしょうが、人間の尊厳をひとすじに思い、絶対に人を差別することなく、菩薩修行を積み重ねた人だったと断言させて頂くことができると思います。
                                  (夫・西光の思い出)

嗚呼、西光万吉は孤独だったんだな。
それは、彼の人生を知れば知るほど、そう思えてきます。

たとえこのように妻からは理解されていたとしても、やはり「孤立無援の思想」はきつかろう。
もうどうでもいいや。酒のんで、ふとん引っかぶって寝てしまえ!
私ならそうなりますが、本当の西光万吉はどうだったのでしょうね。

塩見鮮一郎の『西光万吉の浪漫』は、水平社宣言のところで終わっています。
だから「西光万吉伝」かというと、ちょっと違う。
この小説は、西光の半生を中心に書かれていますが、水平社宣言小説なんですね。
ただ、この「宣言」にとって、西光万吉の存在は非常に大きい。

『思想的には右からは「赤」だと言われ、左からは「ファッショ」だ、「転向者」だと悪評もされ』る西光万吉のような人が必要だったのです。
水平社宣言のような言葉が編み出されるためには。

そんな西光万吉に会いに、奈良まで出かけて来ようと思います。








nice!(0)  コメント(7) 

高速道路とピアノ線

最近右肩痛で悩んでます。
認めたくないけど、トシですな。
で、いろいろ調べてみると、五十肩というのは誰もがなるわけではないそうで。
2割くらいという数字もありました。
10代前半から20年ほど、ラケットスポーツを散々やったので、右肩を酷使したツケが回ってきたのかなと思ったりしています。
でも。
中日ドラゴンズの山本昌投手なんぞは、どうなってるのかな???
彼は私と同じトシ。しかも、30前半で引退して以降、一度もラケットを握っていない私と違い、彼はずっと現役ですからね。
現役だから肩痛なんかにならないのかな。

Tシャツ脱ぎ着するのに、こんなに苦労するのか。。。
と少々落ち込みながら、二軍に落ちたまま登板機会のない山本昌を心配したりしています。
がんばれ現役最年長投手!!!
なんとか、今シーズン1勝をもぎとって欲しいな。

さて。今日はまさに「日々雑感」といったハナシ。

タイトルの「高速道路」と「ピアノ線」。
セーラー服と機関銃みたいに、ぜったいに一緒にならない気がしますね。
ところが。。
この二つが合体した場所が、なんと家の近所にありました。

それがこれ。
↓ ↓ ↓ ↓ 

DSC_0013.jpg

ちょっと前の東京新聞に載っていて、これすぐ近くじゃん!ってことで写真を撮って来ました。
隅田川から堅川に入るところ。
両国橋から下流を眺めると、右手の日本橋浜町から高速道路が川を渡って来ますね。その両国側の高速が上下に立体交差している場所です。

アップにするとこんなかんじ。


DSC_0016.jpg


記事で読んだとき、「え~~~、マジか、これ。ピアノ線でそんな重たいもの、支えられるんかな…」と信じられない思いでしたが、まあ何十年も何事もなく支えているんで、問題ないのかな。

高速道路の建設は、前回の東京オリンピックの頃ですね。
新幹線と同じく、戦後の復興の象徴になりました。

ソ連時代の映画監督、アンドレイ・タルコフスキーが『惑星ソラリス』というSF映画を撮りましたが、その中で「未来都市」を最先端の技術を駆使したクルマで走るというシーンがあります。
それが、この東京の高速道路を使っているんですね。
映画は1972年。当時、それだけ「未来的」に見えたのでしょうね。
今見ると、「え?どこが未来やねん!」と、ツッコミたくなるシーンですけど。

でも、思い起こしてみると、20歳で初めて東京に来た時、この隅田川を渡る高速道路を見て、「カッコイイ! スゴイ!」と感動したのは、まごうかたなく、この私です。

高速道路とピアノ線。
当時の技術では、堅川の河口をどんと塞いでしまうくらい太い支柱しか作れなかったそうで。
船の行き来も出来なくなるし、水量が増えたとき、水の流れを遮断してしまうかもしれない。
それで、苦肉の策のピアノ線だそうです。

でも、ニッポンの技術って、やっぱり凄い!
といういつものお話に、ここから先はなるわけで、NHKでまたぞろ「高速道路建設の大ピンチを救ったピアノ線の技術」という内容の番組を作ればよいのです。
中島みゆきの歌も入れてね。
あのナレーションももちろん。

技術大国による高度経済成長。それによって、アメリカの属国であるという現実は隠蔽されたまま。そんなようなことを笠井潔・白井聡の『日本劣化論』(ちくま新書)でも言っていますけど、この宙ずりにされた高速道路を見ていると、経済大国という見果てぬ夢も、なんだか危うい気がしてきます。

私は江東区のはしっこ、隅田川沿い築25年のマンションに住んでいます。
もっと新しいマンションがよかったけど、ボンビーなんでこれが限界。
土地を選ぶとき、「鳥越神社の白鳥が、隅田川を越えていった先がこのあたりだから、きっと古くからの土地に違いない」という妙なリクツで納得させて(自分を)、今の場所に決めました。
城東は、亀戸以外はどこも地盤が悪かろうとは思うのですが、鳥越の白鳥に一抹の安心を得たいという、藁をもすがる思いですね。

でも。
もし大きなのが東京を襲ったら。。
ピアノ線はどうなってしまうのかな。
神戸のひっくり帰った高速道路みたいに、隅田川にどぼんと落ちてしまうのかな。
私はその光景を見ることもなく、倒壊したマンションの下で、死んでいるかもしれませんね。

来年は神戸から20年。東北3・11から4年。
関東大震災から92年。
東京は、日本は本当に恐ろしいところ。
だから刹那的になってしまうのかな。
歴史を直視したら、いろんな意味で恐くて生きていけないのかな。








nice!(0)  コメント(2) 

黄色い国の脱出口

小田原シリーズも完結し、文体も元に戻します。

今日のタイトル。
「黄色い国の脱出口」は、小説のタイトルでもあります。

それはこの本のこと。
 ↓ ↓ ↓ ↓ ↓ 

黄色い国.JPG


1960年頃、作者塩見鮮一郎22歳のときに書かれた、270枚ほどの中長編です。
(本の出版は1980年)
このたび、わけあって再々読しました
これは、60年安保闘争の敗北と部落差別を二重のテーマに抱えた小説です。

60年安保闘争といえば、戦後まだ15年足らず。
ちょうど数日前、この時代のことを、丸山真男の思想と行動をドキュメントしたNHKの番組でやっていました。
敗戦を迎え、多大な犠牲の上にようやく獲得した民主主義と平和国家。
その短すぎる春が、日米安保によって脅かされている!

当時は東西冷戦の真っ只中です。また戦争に巻き込まれる。
いやそういう言い方は欺瞞がありますね。また、積極的に戦争をする国家になってしまう。
あのカタブツ東大教授丸山真男でさえ、同僚に「デモに行こう」と誘って、驚愕させたというエピソードが語られていました。

ところで、小説『黄色い国』を読み、丸山真男のドキュメントを観ていると、なんと最近のこのクニの状況に近づいていることだろうと気づき、愕然とします。
首相が祖父とその孫。日米安保と集団的自衛権。
でもそれだけではない。
手垢のついた言い方ですけど、出口の見えない閉塞感といいますか。
54年後の私たちは、60年安保闘争の学生たちほど激しく闘争に参加したわけではないですが。


で、小説『黄色い国の脱出口』のこと。

この小説は、単行本としての出版が、書かれてから20年後になっています。
けっこう時間が経ってしまったからか、作者が「遡行の試み」という長い文章を付しています。
もしかすると作者的には、「長い解説を書いてしまったな……」などと、今では思うのかもしれませんが、これはなかなか面白いし、参考になります。当時の状況を想像する手助けにもなりますし。

いろいろ取り上げたいことがあるんですが、ここでは一点に絞って、作品の方法論についてを見てみましょう。
差別を主題にすることについて、作者はこんなふうに書いています。

 社会的、制度的なものとしての差別は、ある意味では理解しやすく、もちろん、社会科学、歴史学、経済学、民俗学等の成果とその分析は作品の枠として取り入れられなければならないが、一番の困難は、そしてそれこそ文学の主題となるのだが、隠された心的な部分である。いや、部分といったが、心理のうちに深く眠る傾向にこそ、社会的、経済的な差別を支えるものがあるはずである。それを、「心的構造」とでも呼んでいいが、表現を拒むそこに接近していかないかぎりは、文学はあの勧善懲悪の二分法の世界に、またしてもからめとられてしまうだろう。
                               (「遡行の試み」192頁)


ブログなんでざっくりとした書き方をします。

差別・被差別の「心的構造」。差別者=悪、被差別者=善という単純な二元論では描けない世界。
男女の関係、とくに「権力関係」が露骨にあらわれる性的関係を考えてみると、わかりやすいのかもしれません。どちらが支配し、支配されているのか。どちらが虐待し、されているのか。SMとなると、さらに分かりにくくなります。

 差別の心的構造を表現しようとする限り、それは両刃の剣となり、差別者と被差別者の位置を転倒しかねないし、さらに、それはブーメランとなり、作者を差別者として刺し貫くかもしれない。いや、作者こそ、差別の心的な構造を知る者として、もっとも恐ろしい差別者となるであろう。明確に差別をテーマにしてはいないが、人間の意識下の世界の持つ共犯性を表現した作家として、マルキ・ド・サドが、この逆説の思想にもっとも近い場所にいる作家かもしれない。
                              (「遡行の試み」194頁)


今なら、村田沙耶香という作家が、男女の性を主題にして、こういう作品を書いている気がします。

で、小説『黄色い国の脱出口』を読んでいると、この複雑な「心的構造」に、果敢に挑戦しているなあと、思うわけです。
22歳のときに書いたというのも驚きです。

例えば、作品中、時間が数行でポンポンと移行するのも、読みづらくはなりますが、その試みの結果でしょう。人間の心理は、目の前にある現実にのみ縛られるものではありませんから。

他にも、差別者が被差別者になり、その逆のパターンもあり、そこに安保闘争の敗北者と勝者が絡み、多くの登場人物が多面性を持って登場します。

『黄色い国』とは結局、脱出口の見えない、息苦しい現実を表した小説です。
差別や部落だけでなく、人間を縛り、心理的に追い込んでいく現実は、54年前も今も変わらずあります。
変わってしまったことといえば、その現実に果敢に挑戦していこうとする作家だけでなく、同時代に生きる人々が、極端にいなくなってしまったことではないでしょうか。

敵を作ってはみんなでボコボコにする。
絶対に勝つ! などと非現実的なことを、いとも簡単に口にする。
わからないことを「知りたい」と欲しない。

「黄色い国の脱出口」は、もう見えているのかもしれません。
しかしそれは、決して明るい未来への出口ではありませんけど。














nice!(0)  コメント(3) 

花の夢 小田原の夢 その7 最終回

IMG_2003.JPG



そろそろ御幸の浜に行って、花と太郎の場面を書かなければならない。
そのためにまずは角の酒屋に入って、缶ビールを調達せねばと、気を取りなおした。
酒屋は近年、改装されたふうだった。小奇麗な店内に、日本酒がずらりと並んでいる。
冷蔵庫には生酒もあった。缶ビールと、冷えた地酒「丹沢山」を購入。これはランチで入った居酒屋で教えてもらった。実にスッキリした旨い酒だと、太鼓判を押してくれた。

レジでは、還暦を数年過ぎたくらいだろうか。品と愛想のよい女性が「地元で人気のお酒ですよ、よく売れます」と、笑顔を見せた。「氷といっしょにレジ袋に入れてくれ」とわがままを言っても、嫌な顔ひとつせずしてくれた。
おそらく、ほぼ毎日通ったであろう作者が、ここに酒を買いに来た頃を想像してみる。
酒を買いに来るのか、この人の顔を見に来るのか。
二十五年前、東京から来た「闖入者」に、この女性はどんな笑顔を見せてくれたのだろうか。
そんな妄想にふけっていると、とうとう浜に出た。角の酒屋からものの三分だ。

浜に出るのに、コンクリートの高速道路の下を潜り抜けねばならないのはシャクだが、出てしまえばそこに、相模湾の絶景が待っていた。
御幸の浜だ。
明治六年、天皇と皇后がこの浜に行幸した。それで御幸の浜というのだと、案内板に説明されていた。近くに、伊藤博文の別邸もあったらしい。ただそれは高潮で被害に逢い、以降は板橋村の方に建てるようになったとか。
ま、そんなことはどうでもよい。
浜に転がっていた大きな石の上に座り、まずは缶ビールを開ける。
氷で冷やされたビールは、ぐびぐびと渇いた喉に浸みた。
うまい! うますぎる。
日はそろそろ西に傾き始め、相模湾の白い波間にきらきらと反射していた。

忘れてはいけない。花と太郎の話を書くのだった。
先の鶴森明神での出会いから、花と太郎にも様々なことがあった。
花は辛いことばかりの角屋を飛び出して、たまたま出会った芸人についていき、やがて自分も「ささら擦り」の芸人になった。「かわごえ」や浅草などで、ささらを擦って歌い踊った。
スパイを疑われ、北条によって小田原で捕縛、入牢したこともある。同時期、本物の大森の密偵として、伊乃が小田原に潜入したりしている。
花の入牢時面倒をみたのが、長吏として牢番のお役についていた太郎だった。
やがて花は許され、小田原で結婚し二人の子をもうける。相手は、花が本当に心ときめく男ではなかった。だが、母おかめは松田で介八とともに餓死していたし、兄与太郎は行方不明になっている。天涯孤独な花にとって、いっときの平穏を得たことは間違いない。
太郎もまた、嫁をもらい子が四人もいる。
太郎は、足軽になってひと儲けしようとするチンピラ酒飲みの新兵衛に、戦で出会って行動をともにしたこともあった。思わぬことから農家に押し入り、略奪、殺人、強姦をする新兵衛といっしょに、農婦を強姦してしまったこともあった。若かった頃の太郎の話だ。悪漢新兵衛の死も見届けた。
やがて太郎は、その大柄な体躯と力持ちを買われ、親分太郎左衛門に付き従いながら、立派な皮田の若党に成長していく。
今、花も太郎もそれぞれ別々に所帯を持ち、同じ小田原にいる。
お互い三十歳を過ぎた。紆余曲折あって、ここ数年会っていない。お互いの来し方を知らない。
それが、ひょんなことで、出会うことになる。
花が入牢中、お上お預かりになって紛失したささらが、今ごろ見つかったのだ。
お役を勤める太郎が、花にそれを届けることになった。
ここから先は、映画にすると、とんでもなく美しい感動的なシーンになること請け合いである。
だから、小説を元に、シナリオふうに書いてみた。


〇御幸の浜(夕方遅く)
  
  ささらを届けに来た太郎と花は、花の子どもを家に置いて浜に出る。
  花の歩く先に、竹笹や雑草が生い茂っている。 
  花の手には、受け取ったばかりのささらが握られている。
  太郎が、先を歩く花に声をかける。

太郎「子どもはよいのか、ほっといて」
花 「たまにはよいわ。もう、うんざり。朝から晩まで世話を焼かせて……踊るわ」
太郎「牢でもいってたな……踊りたいって」
花 「もう何年もやっていない……踊れるかどうか……やってみるわ」


ここからの花が踊る場面のト書きは、ズルして小説を引用します。

 花はいって足駄をぬいだ。
 頭のうちに天鶏(てんけい・花が付いていった芸人)の姿を思い起こした。
 耳の底に天鶏の歌声をよみがえらせた。
 息を吸った。
 度胸をきめた。 
 筅(ささら)をすった。
 歌いだし、からだが軽くなるのを待って、足をあげた。砂を踏み、軽く跳んだ。
 海から、波とともに風が吹いた。
 からだがいっそう軽くなった。
 波の音に消されまいと、いっそう声をあげた。
 頬が熱くなった。
 太郎の顔も、いっそう赤くなった。髭のなかの鼻と口が紅花の色になった。目が赤い光を放ち、海は夕焼けに染まった。
 何日も、何ヶ月も、何年も――胸の奥底にたまっていた苦しい澱が、声とともに汗とともに、からだの外へ流れでた。

 太郎「まるで天女の舞だわ」
 花 「ああ。それなら抱いて」
 太郎「お花。おまえには亭主がいる」
 花 「よいのさ。これ」
   花は太郎の股間に手を伸ばす。
   太郎の股間は丸太ん棒になっている。
 太郎「これ、これ」
   今度は太郎が花の脚のあいだをまさぐる。
 花 「しっ」
   花、金太郎を押し倒し、髭もじゃの口を口でふさぐ。
 太郎「ははは、乳がでる。うまい、うまい」
金太郎、花の乳房を吸いながら笑う。

ここから先も小説。
先に解説をくわえておくと、「茶吉」は花の男児で弟。「春」は花の女児で姉。

 打ちよせる波音のあいだに、茶吉の泣く声がした。
 夜光虫のように、春の目が光った。
 やっと、金太郎が入ってきた。
 長いこと待ち望んでいた。
 もっと早ければ――花がまだおぼこ娘のころであったなら、いっそう胸は早鐘のように鳴り、全身に血は滾ったろう。
 が、それでも花は涙を流した。
 浜は潮が強く、蚊はいなかった。
 代りに、砂がはねとび、手や脚や髪に貼りついた。乳房にも尻にもついた。
 銀鼠の空が急速に灰汁色に変った。
                    (『北条百歳 花の小田原』第四巻、370~373頁)

小説の冒頭から第四巻のここまで読み進めると、よりいっそうそう思うに違いないが、読者は花になった気になって涙する。あるいは、苦労続きだった花の半生を思い、ようやくほんとうの幸を手にした花の悦びに打ち震える。
映像にしてみたくなる名シーンだ。
花は、二十年くらい前の女優田中裕子が良い。太郎は……。
とまれ。銀鼠とは、銀色をおびたねずみ色のこと。
灰汁色は、透明になる前の濁った灰汁のような色を表すそうで、要するに、日が完全に落ちて、一気に真っ暗闇へと変わっていく時間だ。

平成の御幸の浜も夕焼けの時刻になっている。
でも、まだ「銀鼠の空」ではない。雲が赤く染まり始めた頃合いだ。
買ってきた缶ビールを全部空けたので、いよいよ地元の酒、丹沢山のキャップを切る。コップがないのでラッパ飲みだ。
行幸記念の「御幸の浜」で行儀悪し。でもそんなのカンケ―ねえ!
あれ? 酔っぱらったか。
まだ最後を書いていないのに。しっかりしろ!
最後とは、先にも予告した、浜の新兵衛の小屋での花と太郎である。
ふたりはもう一度、新兵衛がもといた小屋で会う約束をする。
こうして、第四巻、花と太郎の最後のシーンになる。
ここも、シナリオふうに。
太郎はもはや「金太郎」になっている。

〇御幸の浜。以前新兵衛が住んでいた掘立小屋。(夜)
  花、子どもを隣家の「お浦」にあずけて出て来ている。
  金太郎、先に来て小屋の中で待っている。

金太郎「遅かったな。もう来ないかと思った」
花  「ここ、掃いたのか」
金太郎「ああ。待っていて、退屈した」
花  「ごめん。人目をさけて浜からきたわ」
金太郎「いいよ。あやまらなくても。きてくれただけで……それで充分だ」
花  「……」
  金太郎、花に抱き付こうと身を寄せる。
  花がわずかに身を引く。
花  「ここよ。聞いて。わたしはここにすわってたの。わたしの隣のここにててがすわってた」
  花、当時のことを思い出す。

〇花、五歳の時、父に連れられて来た新兵衛の小屋。(夜)
  新兵衛と、花の父与兵衛は酒を酌み交わしている。
  花は塩豆をかじりながら、二人の話を聞くともなしに聞いている。

新兵衛「うはっうはっ。そうか箱根の山がな」
与兵衛「あれは、きっとなにかある」
新兵衛「そうか、なるほど。さすが、与兵衛どん。お目が高い。そうよ。実はな、あれは伊豆の伊勢宗瑞が狩をしておる」
与兵衛「狩か……」
  与兵衛、気落ちしたふうにつぶやく。

〇ふたたび、花と金太郎の新兵衛の掘立小屋。(夜)
  
  父与兵衛の不安が的中したことを思い出す。
  
花  「ててがここにすわって、新兵衛さまと『かわごえのおしろ』のことなど話していた。ああ、いまも声が聞こえてくるよう。まるで、きのうのことみたい。わたしは塩豆を齧ってたの……でも、だんだん眠くなって、ここにごろりと横になったの。砂粒が頬にあたって、ざりざりと痛かった。そんなことを、よく覚えている」
金太郎「なに。お花はててときたのか……それはずっとむかしのこと……花がまだちいさかったころのことだな」
花  「そうよ、そうなの。わたしは五つだった。いま二十九だから、二十四年まえの夜のことよ。聞いてちょうだい。その夜、お城の屋形の庭に、柱松が燃えていた。それが、とてもきれいだったのを覚えている。満月に近い月がのぼって、海道は白く明るかった。その夜よ、ててが殺されたのは」
金太郎「殺された?」
  
  金太郎、驚いて身を固くする。

花  「その夜、伊勢の兵が箱根の山をくだってきた。箱根の山や笠懸山【石垣山】からおりてきて、あちこちに火を放った……そのころわたしたちは、板橋村に住んでいた。板橋村は、湯本から小田原へ入る道にあるから、ちょうど途中になるでしょう……伊勢に火を放たれ……父は斬り殺された」
  
  花、鼻をすすり、きつく唇を噛む。

金太郎「そうか……花は板橋村の生まれか」
  
  金太郎、うなずく。

花  「家も焼かれ、住むところがなかった。それでかかにつれられて、小八幡村の叔父さんの家へ、酒匂川を渡った。そのあと、松田総領の山の中へ引っ越したが、そこでかかは餓えて死んだ」
金太郎「そうか、それで、花は角屋に売られたのか」
  
  金太郎、またうなずく。

花  「なにもかも……はじまりは伊勢の殿様だ。ててを殺し、かかが餓えて死んだのは、伊勢のせいだ。仇を討ってやりたいけど……わたしにはまだ力がない」
  花、うなだれる。
金太郎「……」
花  「わたしにできるのは、怨みつづけることだけ……こんなこと、これまでだれにもいわなかったけど……伊勢のみんなが死にたえればいいと祈り、それを待っている……」
金太郎「花……お花……かわいそうに」
  
  金太郎、ひざをついて、にじりよる。

花  「怨んで祈るの。『伊勢の早雲に災いがありますように。悪業の報いを受けて、一族が滅びますように』と」
 
  花、また鼻をすする。

金太郎「つらいめに会って、気の毒にな」
  
  金太郎、花の耳もとでささやく。
花  「ときどき、助けて」
 
  花、金太郎の上に倒れこむ。

金太郎「ああ。できることならなんでも」
 
  金太郎、花を受けとめる。

花  「金太郎。金太郎は、行方不明のわたしの兄者の代り……」


こここからは小説を引用しよう。
また早めの注釈を入れると、「源」とは、花の夫のことである。

 まだまだ紡ぎだされてくる言葉を、金太郎がふさいだ。
 痺れが脳天にきて、言葉を追いやった。
 ざらりとした掌が乳首を撫でると、今度は腰が痺れた。
 痺れの底に熱い火のかたまりがあった。
「ああ」
 と、花は仰反った。
 どこまでも仰反りながら、花は、ほんとうにほしいのは金太郎だと思った。必死にしゃべりつづけたのは、金太郎がほしくなりすぎるのが恐かったからだ。そのことが、いま、わかった。
 やがて、ててだけではない。源も春も茶吉も、花の頭から消えた。
 そばにいるのは金太郎だけだ。
 波はくりかえしくりかえし、袖ヶ浦に打ち寄せてきた。
 花は金太郎にしがみついた。厚い背を撫でた。
 仰反って、頭のほうから歓喜の海底にもぐりこもうと心を集中した。
 水の壁は濃い緑色で、とろりとしていた。
「き、金太郎」
 花の心は集中して開いた。
 身籠ったと悟った。
                    (『北条百歳 花の小田原』第四巻、402~409頁)


ずっとリュックに忍ばせていた。
活版印刷で印刷された本四冊。
その第四巻を静かに閉じる。
ぐびり、と丹沢山を深くあおった。食道を冷たい酒が抜けていく。
こうして花と太郎は、二度と現れることなく、物語の藻屑となって消えたまま、四半世紀が過ぎた。活版印刷の技術も途絶えた。

花は身籠ったようだ。
金太郎との間にできた子だ。
今後の物語で、いったいどのような役割を果たすのだろうか。
ただ、もし花が北条五代の滅亡を見届けるとすれば、この浜からのような気がする。
新兵衛の小屋があった浜というよりも、ようやく手に入れた金太郎の子を身ごもったこの浜から、である。
そのとき、花は百歳。
金太郎はもうこの世にはいないだろう。
子どもは、どうだろう。
花と金太郎の孫を作り、孫はひ孫を作り、花の一家は北条とは逆に繁栄していったのだろうか。

IMG_1998.JPG


浜辺の石から立ちあがって振り返り、箱根の山を仰ぎ見た。
小田原城の西側、秀吉が一夜城を築いた笠懸山(石垣山)もよく見える。
1590年。
箱根からも笠懸山からも、いや東からも北からも、四方八方を包囲した秀吉の軍が攻め入って来ようと身構えている。小田原は火に包まれる。
花の大好きだった板橋村がそうなったように。
新兵衛の小屋で身籠ったことを悟った二十九歳の花は、まだそのことを知らない。
ただ、夢を見ているだけだ。
私は石に座って本を再び開く。
小説の第四巻が終わって、最後に記された作者の「memo」を読み始めた。
少々愚痴っぽい言葉が続いた上で、次のように締めくくられる。

 とはいえ、小田原城模造天守閣からの四囲の眺望と、熱海道からの相模湾は、文句なくすばらしかったし、作業部屋にした二階の窓から、早雲時代に本丸のあった八幡山と、そこにむかいあった石垣山(笠懸山)がよく見えたのも楽しいことだった。あの石垣山の山肌に五歳の花は火の川を見たのだが、百年ちかくのちに、いま一度、こんどは北条を滅ぼす火の川が流れるのを見ることができるだろうかと、小田原を離れるにあたり、気がかりであった。百歳(百年)の構想を、すでに「花と早雲」の四巻のうちに忍びこませてはいるが、豊臣秀吉が一夜城をそこに造るまで書き続けることができるだろうか。体力や気力の問題ではない。読んでやろうという人がいないかぎりは、わたしひとりで、回国芸人・花の生涯を夢見ていることになる。
                   (『北条百歳 花の小田原』第四巻「memo」、428頁)


「ここにも予感があったんだな……」とひとりごち、活版印刷の本をゆっくりと閉じた。
丹沢山も、もはや空っぽだ。
空を紫色に染めていた太陽も沈み、あたりは急速に暗くなっていく。
まさにこれが「銀鼠の空が急速に灰汁色に変った」という時間だ。一番星、二番星と、輝きはじめた。
繰り返す波音が、酔った脳みそに心地よい。
そろそろ帰るとするか。
帰りはもちろんロマンスカー。LSE7000形の列車を選んで切符を買ってある。
早朝から、長い一日だった。
それに、ビールに加えて丹沢山一本、空けてしまっている。帰りの列車内は、すぐに眠ってしまうかもしれない。
廻国芸人花の夢の続きが、見られるだろうか。


終わり







nice!(0)  コメント(2) 

花の夢 小田原の夢 その6

箱根湯本駅に戻って来た。もう、かなり観光客が増えている。
動きだしたばかりの登山鉄道の車両に、次から次へと吸い込まれていく。
到着したばかりのロマンスカーからも、じゃんじゃん人が降りて来た。

こちとらは、小田原行のがらがらの普通電車に乗り込んだ。この時間は、地元の人もあまり使わないのか、一両に数人が座っているだけだ。
観光客ふうの乗客は、自分しかいない。
箱根板橋まで、わずか三駅で到着した。
降りる時、ドア近くに座っていた地元のおばさんに、「この人、どこに行くんだろう?」というような目で見上げられた。
そりゃそうだろう。ひとつ前の風祭駅なら「かまぼこミュージアム」もある。だが、箱根板橋駅近くには、観光客の行きそうな場所は何もない。不思議な目で見られるも当然だ。
けれども、案外こういう視線は嬉しいもので、「ま、ここにゃ、花の板橋村があるからね」などとひとりごちながら、自分一人しか降りなかったホームの跨線橋を渡った。
しかし、である。
改札を出て、辺りをひとまわりしてみたが、板橋村を想像させるものは、ここにはほとんど、なんにもなかった。わずかに、かつての旧街道が、今のびゅんびゅん車が行き交う1号線と並行して残されているのみか。

IMG_1986.JPG


ただ、駅前の案内板によると、山縣有朋 の古稀庵、益田孝 の掃雲台、清浦奎吾 の皆春荘、大倉喜八郎 の山月荘と、明治の政治家、実業家がこぞって別荘、別邸を建てたという。北原白秋も移住してきている。
今はつまらぬ地方都市の平凡な風景だが、明治のころまでは風光明媚な土地だったのか。それなら、花の頃の板橋村を偲ばせる。自然の好きな花が大好きだった板橋村なのだ。明治大正までは、山と川と海に誘われるように、人々も集ってきたのだろう。
いつのまにか初夏の太陽が顔を出し、アスファルトの道路を炙っていた。
暑い。明治の板橋村ならともかく、排気ガスの混じった熱気には参ってしまう。
それで、旧小田原城址跡の高台を諦めた。
すぐそこの板橋見附近く、居神神社へと向かう。
この居神神社には、次のような由緒がある。

三浦半島の新井城主であった三浦荒次郎義意は、伊勢新九郎盛時(北条早雲)に攻城され、永正一三年、父陸奥守善同とともに自刃した。戦後義意自刃の際、その首は三浦半島から海を越えて小田原まで飛来し、井神の森の古松にかぶりつき、そのまま三年間通行人をにらみつけたといいう。
そこで、城下の僧が代わる代わる供養したが、成仏しなかった。これを聞いた久野総世寺の四世忠室存孝和尚が駆けつけ、松の下に立ってしばらく読経の後、「うつつとも夢とも知らぬひとねむり、浮世の隙を曙の空」と詠むと、さしもの怨霊も成仏し、たちまち白骨として地に落ちた。その時空より「われ今より当所の守り神にならん」との声があったという。そこで社を建て居神神社として祭ったといわれている。
                           (居神神社境内掲示板より)

IMG_1989.JPG


なかなか興味深い伝説である。平将門の首塚伝説にも似ている。
日本人は本当に首が好きだ。戦の敗者や、罪人の首を晒すという日常的に目にする行為が、大衆にこのような物語を創造させたのか。
この物語の場合、敗者三浦に肩入れし、勝者北条をよく思わない者が、広めたことだろう。
先の早雲寺で引用した早雲の死の場面。
死の床で、嫡男子の氏綱に次のように危惧していた。

 食中りだと、わしは思っている。けれども、氏綱。世間はそう受けとらない。三浦 道寸の怨霊に祟られたというだろう。そうした話はおもしろい。呪師などがいいふらして、ひろめるかもしれない。これが恐い。
 
三浦道寸の怨霊に祟られたと、辻辻でいいふらす呪師とはいったい誰だろうか。
勝者北条の栄華をよくは思わない者。
風光明媚な板橋村を焼け出され、父と飼い馬「おと」を殺された少女、花だったのだろうか。
死の床の早雲には、それが見えているのかもしれない。


IMG_1987.JPG


居神神社の境内そのものは、失礼ながら案外平凡でつまらなかった。
首伝説からしても、もっとおどろおどろしいものを想像してしまったからでもある。
そこは、どこにでもある、整然とした小奇麗な神社であった。
この神社が、新幹線、JR東海道線、国道一号線に挟まれている狭い地所にあるからなのかもしれない。ひっきりなしに電車や車の轟音がとどろく。とても鎮魂の神社には思えないのである。神仏を畏れないことにおいては、秀吉よりも、現代に生きる我々の方が勝っているのか。

国道に戻り、ゴールの御幸の浜を目指す。
ここで言い訳せねばならないが、早朝五時に起きて、新宿七時発のロマンスカーに乗って来たのである。しかも、午後からは蒸し暑くなった。
湯本で迷い、予想以上に歩いたのでもうフラフラだ。
で、たまたま来たバスに飛び乗ってしまった。
乗って三つめが、今朝も通った「御幸の浜」の交差点にあるバス停である。またもや乗っていたおばさんに「もう降りるの?」と、変な顔をされる。
しゃあない。こちとら、朝からずっと歩き回って、喉がカラカラなんでぇ。
国道を横切り、まっすぐ浜へと続く道に入っていく。道の先にもう海が見えている。
というのは嘘で、海岸べりを走る高速道路で視界が遮られ、直接海は見えない。
このコンクリートのバケモノめ。でも、その向こうに海があることは、なんとなくわかる。コンクリートから上は、ただただ青い空が広がって、雲以外は何もないからだ。
御幸の浜の前に、実はもうひとつだけ目的地があった。作者塩見鮮一郎が住んでいた家が、ここら辺だったのだ。
第四巻のあとがきふう「memo」で、次のように書いている。

 『北条百歳』においても、いろいろとあり、この小説のために引越した小田原を、予定より早くきりあげざるをえなかった。わたしは、城と海とのあいだの土地、小説でいえば、ちょうど新兵衛の家があったあたりに住みついたのだが、たまたまこの一郭には、古くからの濃密な人間関係がのこっていた。
                     (『北条百歳 花の小田原』第四巻、426~427頁)


昔はもっと浜が広く、東海道から南側は、ずっと砂浜が広がっていたのだろう。
花の父親与兵衛の悪友、酒飲みの新兵衛は、この浜の小屋に住んでいた。早雲の小田原攻めの直前に、与兵衛は五歳の花を連れてここに来ている。花には塩豆をかじらせ、新兵衛と酒を飲んでいる。街道の不穏な空気を察し「いくさかな?」などと、花には聞こえないように小声で話している。長い物語の冒頭部分である。

物語が進んで与兵衛も新兵衛も死に、住人のいなくなったこの浜の小屋は、花と太郎の逢い引きの場所となる。第四巻の末尾の話だが、それは最後に紹介しよう。
今は住宅と、たくさんの寺が密集する地域だ。木造の住宅もぽつぽつと残っているが、古い寺が異様に多い。その中に、『北条百歳』を書いていた借家もあったという。
詳しい住所を作者がHPで公開していたので、それを頼りに歩いていく。
お。角に酒屋があった。これは好都合。あとで二、三本買ってから浜へ行こう。
住所からすると、酒屋の角を左に折れて、すぐ右の路地を入ったあたりのようだった。
だが、もう良いだろう。家はとっくに新しい住宅に建て替えられている。それに、作者の住んでいたところがわかったとて、どうということもない。変人だが、そういうことに興味はない。

興味があったのは、「古くからの濃密な人間関係がのこっていた」土地のことだ。
作者はこの「memo」の別のところで、「闖入者」(ちんにゅうしゃ)と自己を表現している。
「闖入」とは、広辞苑で引くと、「ことわりなく突然はいりこむこと」だそうだ。
近代社会は移動の自由が保障されているはずだが、そう簡単にはいかないもうひとつの社会、すなわち「世間」が、ここ小田原本町にも残されていたのか。
何代にもわたって住みついている住民。そして代々続く寺。
これから書くことと関係しているのか、いないのか。憶測してみても仕方のないことだが、小説『北条百歳 花の小田原』は、中世の小田原や、関東各地の賤民についてもきちんと書かれている。
御幸の浜で、冷えた缶ビールを飲む前にちゃんと書いておこう。

小説の中に登場する賤民は、主に皮田(かわた)身分とじゃっかんの非人、そして諸国を経巡る時宗などの念仏衆 や、説経節などの廻国芸人などである。
皮田(長吏)は、江戸の穢多につながる。というか、関東では、皮田が江戸期になって徳川の身分制に組み込まれ、穢多身分になった。その下に非人を抱えている。
1590年。小田原北条氏が滅びた年に、家康はもう江戸に入っていた。それから約百年かかって、徳川江戸の賤民制度は、浅草の弾左衛門をトップに立てて完成されていく。その支配地域は、関八州のほぼ全域に及んだ。
ここ小田原の中世では、まだまだそのようにはなっていない。戦国の武将のごとく、皮田もまた、群雄割拠の時代である。
そのことを凝縮したような場面が小説にあるので、抜き出してみる。
早雲は、もともと鎌倉にいた三浦氏の軍を蹴散らし、先述したように三浦半島の先端、新井城へと追い込んだ。そして、支配下においたばかりの鎌倉で、頼朝以来の長吏頭、弾左衛門と会う場面である。

 弾左衛門は、藤原頼久と名乗った。
 朝黒い顔に目を光らせて訴えた。
「わたしは藤原頼久と申し、由比ヶ浜の住人でございます。わが一家は、右大将【源頼朝】より、関東の長吏の上に立つ者とされました。関東の長吏すべては、わたしどもに皮口銭【税】を納めなければなりません。それなのに、小田原小八幡村の長吏・友右衛門が口銭をわたしどもに納めようとしたところ、小田原原方村【山王原村】の長吏・太郎左衛門が妨害し、それらの口銭をそちらに納めるよう申したとか。そのような勝手は許されません。どうか、太郎左衛門を叱ってください」
 諄々という。
「右大将の証状かなにかがあるのかな」
 早雲は興味をひかれて訊いた。
 伊豆長岡村にいた太郎左衛門を、小田原原方村に住まわせたのは、早雲である。
 弾左衛門・頼久の願いを聞き届けるわけにはいかない。
                        (『北条百歳 花の小田原』第二巻、88頁)

大森藤頼の小田原時代は、小田原一帯の皮田(長吏)は、鎌倉の弾左衛門の支配下にあった。そこに、伊豆を奪った早雲が箱根を越えて攻め入って来る。早雲は小田原を取ると、自分の息のかかった太郎左衛門を、伊豆から呼び寄せ原方村(山王原村)に住まわせた。
飛ぶ鳥をも撃ち落とす早雲の勢いをバックに、原方村の太郎左衛門は恐いものなしだ。かつての親分、鎌倉の弾左衛門に盾ついている。「中世仁義なき戦い・小田原編」の幕開けである。

各地で皮田同士の抗争もあっただろう。だが、最終的に鎌倉の弾左衛門は、武装政権の独裁的トップ、小田原や鎌倉を力づくで奪取した早雲に訴え出るしかない。
花がゆいいつ心を通わせた「足柄山の金太郎」こと太郎は、太郎左衛門の配下として伊豆からやってきた皮田のひとりだ。山王川の河口付近、原方村に住んでいる。
太郎左衛門や、配下の太郎たちが、長吏としての役割を担っていることも、きっちりと小説には描かれている。北条の密偵をしたり、牢番、処刑の手伝いをしたり、時には戦について行って、敵の首や戦死体の運搬などもする。
日常的には、皮革職人としての皮田の仕事が主である。
武士にとって、皮革産業の担い手、当時の言い方をすると革細工師は、鍛冶師とともに、武器製造の担い手として重要な職人である。
他にも、箙細工師(えびらざいくし・矢入れを作る人)や、鎧細工師(よろいざいくし)、城や砦を構築する石細工師、番匠(大工)、塗師(漆塗り)、摺師(布に文様をつける)などなど、小田原にたくさんの職人が集められている。
商業の発展だけでなく、これら職人たちを呼び寄せ優遇したことも、後北条の領国経営のプラス面として、後世に高評価を得ることになる。
これは、書かれなかった二代目氏綱以降の物語を想像するのに役立つかもしれないので、引用してみる。

 後北条はその本拠地を、早雲は伊豆の韮山に置いたが、氏綱以降は小田原を居城にした。小田原城は、それまでは大森氏という一豪族の館にすぎなかったが、見るまに関東で指おり数えられる城になり、城下は「都会」になった。~中略~小田原城址から発掘された良質の青磁や白磁の中国陶磁器の破片から中国との深い交易なども知られているし、ひとつの町をそのまま城壁のなかにとりこんでしまう総曲輪(そうぐるわ)の出現も有名である。~中略~この町に、石切、鍛冶、畳指などの職人が集められ、優遇されたことも知られているが、徳川の時代になると、それらの人は江戸の町に呼び寄せられるのである。日本橋のそばの小田原町は、彼らのうちの石屋善左衛門が移った町だ。江戸に「伊勢屋」が多いのは川柳 になるくらいだが、これも小田原にいっぱいあった「伊勢屋」が引越したのである。
                   (『江戸の城と川』河出文庫、2010年、148~149頁)
 


小田原の良いところは、みんな江戸へと持っていかれた。小田原市が、北条、北条と連呼するのも、詮のないこととはいえ、いた仕方ないのだろうか。

小田原本町の古寺の石塀は、路地の奥へ奥へと、どこまでも続いている。それに沿って歩いていくと、人気などないのに、どこからともない複数の視線を感じ、背中が寒い。
ところどころ苔むした石塀は、雨を吸ってじめじめと湿気を帯びていた。
お日様はもうとっくに顔を出しているのに、覆いかぶさった樹木や竹藪の陰で、ぬめっとナメクジが数匹這っているのを見て、思わず目をそむけた。

続く







nice!(0)  コメント(3) 

花の夢 小田原の夢 その5

IMG_1979.JPG


午後から天気が回復するかもしれないとの予報だったので、とりあえず小田原ー箱根湯本間だけは動き出した登山鉄道に乗って、湯本の早雲寺に行くことにした。
本当は、鶴森神社から歩いてすぐの「御幸の浜」に行きたかったのだが、まだ時おり小雨の降る天候では浜に行ってもつまらないだろう。晴れとはいかないまでも、右に真鶴左に三浦半島が望める程度には、回復してから行くつもりだ。
それで、いったん小田原駅に戻った。
ちょうど昼時だったので、駅前の居酒屋チェーンのランチで、金目鯛の煮つけ定食を食べる。カマスとマグロの刺身つき。旨い。悪天候だし、今日は良い魚にありつけないだろうと思っていたが、けっこういけた。
カマスの刺身など、東京ではなかなかありつけない。それに、この時期小田原といえばキンメキンメで、ややトゥーマッチな観があって、やめよかな、などとアマノジャク変人は思ったりもしたが、食べて正解。旬のものは、ごちゃごちゃイチャモンつけずに素直に食すべし。
歩き回ったのでビールが飲みたかったが、ここはガマンした。真面目に取材を遂行しなければなるまい。ビールは、最後の御幸の浜まで取っておこう。

小田原駅から、運行を再開したばかりの箱根登山鉄道に乗り込んだ。ようやく雨が止んで、だいぶ観光客が目につくようになった。それでも。今日は土曜日である。本来なら、もっと人であふれかえっているはずだ。
地図を見ながら、次の箱根板橋駅で降りるのは、湯本からの帰り道にしようとほくそ笑む。乗客がけっこういるので、さっきまでのように声は出さない。しかし、頭に浮かんだコースは完ぺきだった。ニヤつかないわけにはいかない。
湯本の早雲寺で北条五代の墓を見て、再び箱根湯本から箱根板橋まで電車で戻り、かつての板橋村付近や八幡山小峰の旧小田原城跡を散策し、ついでに板橋見附にある居神神社(早雲によって滅ぼされた三浦氏を祀る)を巡り、そのまま東海道を歩いて御幸の浜へと向かう。
これで晴れてくれれば、言うことはない。歩き回ってほどよく喉が渇き、御幸の浜で飲むビールはさぞ旨かろう。ごくっ、とツバを飲んだら、もう箱根湯本に着いていた。
もうじき箱根湯本ー強羅間の運行も再開されると、声高なアナウンスがホームの上を流れている。雨はすっかりやんで、雲の切れ間から陽光がさしてきそうな気配だ。

ところが、のっけからプランは計画倒れになった。
徒歩十五分と観光地図にあった早雲寺に、迷って三十分以上もかかってしまったのだ。それに、雨がやんだのはいいが、気温と湿度が同時に上がり、蒸し暑いこと蒸し暑いこと。ムダに坂道を上り下りしたので、全身汗みずくになってしまった。
とりあえず、寺の駐車場のトイレの陰でシャツを着替え、タオルを濡らしてしぼって、何度も汗を拭いた。ふう。もうビールが飲みたい。
気を取りなおしてリュックを背負い、寺の境内に入る。本堂はすべてビニールシートで覆われていた。改修工事中だ。でもこれは、寺のHPで事前に確認していた。見たいのは、北条五代の墓である。問題はない。
本堂の裏手の墓地へと回る。奥に石の階段が見えた。登っていくと、樹木で覆われた学校の教室程度の広さの苔むした空間に、五つの墓が整然と並んでいた。ひんやりとした空気が心地よい。

IMG_1970.JPG


断っておくが、私は墓オタクではない。
なんでも最近、有名人の墓をめぐって写真を撮ったりブログに載せたりする「墓オタク」なる人種が存在するらしいが、私にそういう趣味はない。
それでもこの箱根湯本の早雲寺に来たかったのは、小田原における北条五代のほんとうの姿を、イメージできるのではないかと思ったからだ。
北条五代祭りとか、「北条五代をNHK大河ドラマに!」だとか、小田原市が北条氏を利用したい、ぶっちゃけていえば、北条氏をネタに金儲けしたいのは分からなくもないが、ほんとうのところはどうなのだろうか。
ひっそりとした樹木の中の空間は、なんだかそこだけ中世にタイムスリップしたみたいだった。
とはいえ、五基の墓は、江戸時代初期に建てられた供養塔で、早雲の死とともに創建された当時のものではない。
これも小説から引用しよう。早雲の死の場面である。

「さて、わしの葬儀だが……修善寺で燃やしてもらいたい。枯木のようなからだだ。   
すぐに焼けよう。墓は湯本村に作れ。早雲庵の裏の方でよい。石塔はいやだ。土盛りがよい。わしはそこにいて、双子山を見たり、小田原のほうを眺めていたりしたい。かたわらに、大徳寺のような、禅の大寺院ができ、僧が出入りして修行する。そこが関東第一の寺になるとよい」
 早雲は目を細めた。
 鐘が鳴り、湯坂の山にこだまする。
 魚板【魚鼓】を叩く音が伝わる。
 深更【真夜中】になれば、早川と須雲川のせせらぎが星空に高くひびく。
 緑に包まれて、早雲は眠る。
「ち、父上」
 氏綱の呼ぶ声がした。
「眠ったか」
 早雲は苦笑した。
「遺言を述べながら眠る馬鹿があるか」
 と、おのれを叱った。
 あとひとつ、あった。
「気がかりは、あとひとつだ。わしは、三浦の三崎で病魔に襲われた。食中りだと、わしは思っている。けれども、氏綱。世間はそう受けとらない。三浦道寸の怨霊に祟られたというだろう。そうした話はおもしろい。呪師などがいいふらして、ひろめるかもしれない。これが恐い……氏綱、方策はひとつだ。おまえはすでに信仰に篤いが、これまで以上に、伊勢家の当主として、神仏を敬え。神仏こそ、人々が心を寄せるところだ。神仏を尊び、大切にしているなら、悪意の噂など、すぐにも消えよう。呪詛も届くまい」
 早雲はいった。
(『北条百歳 花の小田原』第四巻、417~419頁)

遺言通り、当初は土盛りの墓だったのだろうか。
没日は、1519年8月15日。新井城の三浦道寸を滅ぼしてから三年経っている。
このとき、早雲が88歳の大往生だったのか、64歳だったのか、ここでは問わない。歴史家の論争は、近年では64歳説に傾きつつあるようだ。ただし、小説は、従来の定説だった88歳説で書かれている。
最初の早雲寺が建てられたのは、没後二年経った1512年。それから69年後の1590年。秀吉の侵攻で、小田原はすっかり包囲される。
このとき、秀吉が石垣山のてっぺんに建てた「一夜城」は有名だ。小田原を見下ろすような位置に、強固な城を一夜で建てたように見せかけた。
そして、家康と小田原に向かって立ちションベンをしながら、秀吉が「小田原を奪ったらお前にやる」と、言ったとか言わなかったとか。
だが、秀吉が小田原包囲軍の本陣を、ここ早雲寺に置いたことはあまり知られていないのかもしれない。
まず初代早雲の墓がある寺を襲い、そこを北条攻めの本陣とする。戦略上の理由もあろうが、エグい男である。神仏など畏れていないに違いない。
小田原を攻め取った後、前の城主である四代目の氏政は切腹。五代目氏直は高野山に追放。北条氏を滅ぼし、早雲寺も焼き払った。小田原北条文化の一翼を担った伽藍は、早雲の土盛りの墓とともに、すべて灰になった。
だから、私が見ている五基の墓(供養塔)は、切腹した氏政の弟氏規の子孫、氏治が寛文十年(1670年)に建てたものである。
北条氏は滅ぼされたと書いたが、四代目氏政の弟氏規は許されて、その子氏盛は河内狭山藩一万石の外様大名となり、江戸期を通じて細々と存続している。

小田原もまた、同じような運命をたどって、今に至っているのかもしれない。
もしかしたら、小田原が江戸だった可能性もあった。
そうすると、小田原が今の東京となって、世界的な大都市となっている。
マボロシとなった東京オリンピックも含め、ここ小田原で三度目のオリンピックが開催されるかもしれないのだ。
しかし秀吉は、「小田原は、お前にやる」といったくせに翻した。
立ションの口約束はホゴにされた。
すでに百年の発展をとげていた小田原を家康にやると、家康がすぐさま力を付けて脅威になる。秀吉はそう考えた。で、まだ葦の茂る江戸入り江、湾の奥の奥に家康を遠ざけた。
こうして江戸、そして東京と、東京湾の奥の都市はこの国の中心として発展し続けることになる。相模湾を懐に抱えた小田原は、置いてきぼりだ。新幹線も「こだま」しか止まらない。
五百年前の夢をもう一度。
北条五代の見た夢をもう一度。
しかし、NHK大河ドラマの夢は、いまだ実現する見込みはなさそうだ。小田原では盛り上がっても、北条氏の知名度は全国的にはそれほど高くはない。
北条氏に対する塩見鮮一郎の痛烈な批評を引用してみよう。

 関西から入ってきた北条は、関東の中心に居城をおけなかった。箱根の山の東のすみ、関東平野の西のすみを本拠地にした。結果、西の文化からも取り残されたし、坂東武者の荒夷(あらえびす)の夢を再現することもできなかった。やはり、どこか中途半端なのである。そのあと、西からきた徳川は、はじめ小田原城を居城にしたがったが、秀吉がそれをきらい、江戸城へ入れと命じた。京からより遠く、より僻地へと追いやった。家康はよくがまんしたが、なにが幸せになるかわからない。
 東京はこの偶然から生まれたのである。
                       (『江戸の城と川』河出文庫、2010年、155頁)

やはり、どこか中途半端なのである、か。
私なら、今さら戦国武将北条五代の夢でもなかろうに、と思うのである。
それだと、結局負けてしまう。中途半端だ。事実、2016年の大河は、真田幸村に取られてしまった。
こちらとて、またぞろ「やあやあ我こそは、さなだ、ゆきむら!」などと、穴から出ては消え、穴から出ては消え、でもなかろうに。近代150年の夢の続きを、いまだ見ようとしても、仕方なかろうに。
新しい夢は、廻国芸人花の夢だ。伊乃の夢でもある。
そんなことを夢想しながら、早雲寺を後にする。
これ以上汗をかきたくないので、だらだらと来た道とは別の坂を下り、須雲川と早川の合流地点に出た。
早雲の死の場面で、 
深更【真夜中】になれば、早川と須雲川のせせらぎが星空に高くひびく。
と作者が書いたせせらぎは、昨夜からの雨で、ごうごうと濁流になって激しくぶつかっていた。
どちらの川の勢いが勝っているのか。しばらく眺めてみても、よくはわからない。


続く








nice!(0)  コメント(0) 

花の夢 小田原の夢 その4

IMG_1916.JPG


天守閣の急な階段をゆっくりと降りて、今度は城内の図書館へと向かう。
ここ小田原城址公園には、歴史見聞館、郷土文化館、美術館と、観光用の文化施設のほか、こども遊園地やミニ動物園もある。広大な敷地内では、今日も「あじさい花菖蒲まつり」が催されているし、桜の季節は花見客で大にぎわいだそうだ。
図書館は市立で、これは市民の日常利用の図書館である。あじさいや外堀の蓮の花で目を楽しませながら、毎日本を借りに来ることが出来る。
観光によし、市民の散歩にもよし。
小田原市め、なかなかやるなと、またひとりごちた。
午前中の早い時間だし雨降りなので、公園内にはほとんど人が歩いていない。
傘をさし、図書館に向かいパシャパシャと歩いていると、左手に歴史見聞館の案内板があった。せっかくだからと入ってみる。
しかし、これにはガックリだ。
小田原市が北条、北条と持ち上げるのは、分からないでもない。宿願のNHK大河ドラマになんとか採用されて、小田原の知名度を上げたいという気持ちも理解できる。
だが、歴史見聞といいながら、北条早雲、火牛攻め、小田原城と北条五代と、北条関連の展示がほとんどすべてを占めているのはどうなのか。歴史イコール北条。戦国武将のいくさの歴史が、歴史のすべてなのか。

とはいえ、まあまあこれもまた、何処もおなじ秋の夕暮れ、なのである。
平成の世には、とうとう歴女(レキジョ)や歴ドル(歴史好きアイドル!)なる人種まで登場したが、何のことはない。たいてい戦国武将か、幕末維新の志士オタクだ。
最近、「中世武士を見なおす」というサブタイトルのついた本を読んだ。
次のように書き出されている、なかなかに刺激的な本だ。

 日本人は相変わらず武士が好きである。プラスイメージを持っている。テレビでは、御存じ「水戸黄門」をはじめ、NHKの大河ドラマも主人公はみんな武士。悪い武士もいるが、それは本来の武士にあらず、かならず立派で強い「正当な」武士があらわれる。ビジネスマン向けの雑誌も、すぐ会社経営のノウハウを「戦国の名将」の軍略に求めたり、「男」の生き方を「武士道」に学ぼうとしたりする。
                         (野口実『武家の棟梁の条件』)


なぜ歴史イコール武士なのか。武士という歴史的存在を、英雄視することなく客観的に分析することが、なぜ出来ないのか。
歴史家はそれなりに社会科学的研究を進めている、と著者はいう。
しかしそれ以上に、「明治以降、国家主義的教育」によって作られてきた武士のイメージがいまだに強く作用している。
先ほどの、活版印刷とメディアのことを想起しよう。
文武兼備の武将源義家から足柄山の金太郎、水戸黄門、軍師官兵衛に至るまで、武士の好イメージはメディアによって再生産され続けている。
ドラマだけではない。
著者野口実もいっているように、オヤジ向けのビジネス雑誌は、戦国武将ネタをふんだんに盛り込む。成功した社長は、サクセスストーリーを有名な武将になぞらえて得意げだ。
武士とメディアの蜜月関係。
それは何のために必要とされているのか。
花や伊乃の視点になって、考えてみなければならないだろう。
政府とメディアによって押しつけられてきた武士のイメージから自由になったとき、「この国のかたち」でさえ大きく変わっていくと、私には思えてならないのだが。

などなど、つらつらと考えながら見聞館を出て、城址公園内の市立図書館に到着。
ネットで調べていたのでべつだん驚きもしないが、小田原駅の駅舎と違い、ここは作者が通っていた頃のままだ。
ぷんぷんと、昭和の匂いがする。
おそらく、昭和40年代の建物ではないだろうか。
その頃生まれた私が通った図書館が、そのまんま目の前にあった。
ただし、ちゃんとコンピューターは導入してあり、東京の真新しい図書館のように、検索、予約が出来るようになっている。
しかし、である。
嗚呼。なぜなのだろうか。
重要な歴史資料が地下書庫に収められているのは当然だとしても、ちょっとばかり希少な本でも検索すると地下書庫になっている。書庫の本はすべて「禁帯出」だ。
百歩ゆずって、それも仕方がないと納得出来なくはないが、地下書庫の文献リストが公開されていないのである。
これにはとうてい納得出来ない。
もちろん一般利用者は、書庫に入ることは出来ない。ということは、ピンポイントで探さない限り、書庫の本と出会えることはないのである。私のように、背表紙の表情をじっくりと眼で追いながら文献を探っていくのが好きな輩には、利用しづらいことこの上ないのだ。
歴史資料や文献は、市民のためにではなく、お上のために存在するのであった。
こういうところまで、昭和のままなのである。

小田原市民自慢の憩いの場、小田原城址公園を出るときは、少々愚痴っぽくなってしまった。見聞館といい図書館といい、ダメじゃないか小田原市!
そんな気分のまま、入って来た時の駅に近い学橋ではなく、御茶壺橋でお堀を渡り外へでた。橋の左側が、茶壺のように小さな池になっているからそう呼ばれているのか。
右手はお堀が奥まで拡がっていて、上野の不忍池みたいないちめんの蓮池になっていた。これからが蓮の花のシーズンだ。毎朝、ポンッと音を立てて開く紅や白の蓮の花を思い浮かべると、少し楽しくなった。
国道一号線へと向かうことにする。かつての東海道である。
雨はようやく小降りになっていた。これくらいなら、傘も必要あるまい。
折り畳みをリュックにしまい、外堀沿いの道を右に曲がる。すぐに「御幸の浜」の交差点が見えてくる。これが東海道だ。道沿いにしばらく行くと、本町交差点で九十度左に曲がっている。しばらく行くと、市民会館の前でまた右に九十度直角に曲がる。
旧道がくねくねと湾曲しているのは、戦略上必要だったからとか、川の流れがそのまま道になったからだ、などといわれている。しかし、こんなに直角に曲がっているのは珍しい。角で死角を作り、敵を鉄砲で狙ったのか。

IMG_1954.JPG


松原神社は、この角と角の間の路地にあった。かつての鶴森明神(つるのもりみょうじん)である。毎年五月に行われる「小田原北条五代祭り」 は、松原神社を含む五つの神社が参加するが、その中心的神社として大いに賑わいを見せるそうだ。
だが、私にとってここは、北条を憎み武士を嫌う花の鶴森明神である。
小説の文章で説明してもらおう。
視点は十四歳になった花。
長い髪を一人前に桂包(かつらつつみ・長い布でうしろから髪を包み、額で大きく結んだもの)にしている。だが、腰巻はつけていない。まだ女にはなっていない。
花はいつも、奉公している宿屋で辛いことがあると、ここに来る。ここ鶴森明神の境内は、花の心のオアシスなのだ。今日も、裏の木戸口から飛び出して来た。

 鶴森明神は、竹の柵で地所を囲っている。柵の竹に、朝顔の蔓が巻きついたまま、枯れている。
 境内に入った。
 正面に拝殿がある。
 池にかかった木橋を渡る。御手洗池は瓢箪(ひょうたん)のかたちをしている。
 足駄の音が、緑色をした水面にこだました。
 右手に鐘楼がある。そばに、高さ七丈【21メートル】はあろうかと思える公孫樹(いちょう)が立っている。神木である。濃い緑の葉をつけて、頭のうえに広がっている。
 公孫樹の背後は杜(もり)である。ここに真名鶴が棲みついていたというのも、うなずける。杜のなかを、からだを銀白色に光らせた鶴が群れ歩いた。羽を広げ、赤い頭をあげ、白い首をぐいと長く伸ばし、飛んだ。冬になると、どこからともなく渡来してきた。
 それで明神社の名が鶴森となった。
 宿の主人の権兵衛が、客人に倦きもしないでくりかえしている。
                      (『北条百歳 花の小田原』第二巻、8頁)
 

相模湾に突き出している真鶴岬といい、相模の国では、古くから真名鶴が越冬のために飛来してきたのだろう。マナヅルは、非常に美しい大型の鶴で、シベリアのバイカル湖あたりから渡来する。
真名には「まことの名」という意味がある。仮名に対して真名といえば、漢字のこと。平安時代、本当の文字は漢字であって、仮名は「仮の文字」であった。男は真名、女は仮名、という分け方もされる。
だから真名鶴とは、相当に高評価なネーミングだ。「ツルのなかのツル」といった感じだろうか。

脱線した。
松原神社、かつての鶴森明神は、今は町中にある。かつてはもっと海の近くにあったのだろう。鳥居から伸びる参道は、浜に通じていたのかもしれない。
花は11歳の時、ここにやってきた。
それまでの花の物語を要約すると、次のようになる。

村を焼け出された後、花たちは、母おかめの実家に身を寄せていた。だが、自分が育った実家の農家なのに、兄と兄嫁がおかめに辛くあたる。特に兄嫁が意地悪い。
花はなかなかの器量よしなのだが、それは母のおかめに似たからだ。おかめという名前ながら、母もまだまだ若くて美しい。だからよけい、兄嫁は意地悪になるのか。
そこに、松田の山の中から行商に来た介八が現れる。介八はおかめを気に入り、実家に居づらくなったおかめと花と与太郎を連れて、松田に帰っていく。
松田の寂しい山中の貧乏な暮らしで、花は当初泣いてばかりだったが、餓え死にすることはないし、山の楽しみもぼちぼちと分かるようになってきた。板橋村のときもそうだったが、花は、木や森や川が大好きなのだ。
そんな頃、小田原に行商に行っていた介八が、足を大怪我して帰ってくる。山中で暴漢に襲われて金品を奪われ、歩けなくなるほどの傷を負ってしまった。
それでとうとう花は、小田原の鶴森明神の前にある大きな宿屋「角屋」に奉公に出された。引用した場面の3年半前のことである。

平成の鶴森明神こと松原神社は、竹ではなく頑丈な石製の柵で覆われていた。鳥居も拝殿も立派である。だが、真名鶴の杜はもはやなく、神社の周辺は、かなり場末感の漂う歓楽街になっていた。
しぶい居酒屋などもあるが、スナックやパブが多い。フィリピンやタイ、ロシアの美女がお酌してくれるのだろうか。
中世の小田原だと、ここら一帯は宿場町である。特に、北条早雲が小田原を取ってからは、隣の国府津を抜いて、いちだんとにぎわいを見せ始めた。
人も物も、じゃんじゃん小田原に集まってくる。早雲が商業の発展を促すため、通行税を免除したことも大きい。こうしたことも、早雲に始まる小田原後北条は領国経営に長けていた、という評価につながっていく。
だが、花にとっては、辛いことばかりだ。
朝から晩まで牛馬のように働かされる。それでいて、質素な食事しか与えられない。
花が腰巻をつけるようになると、当然のように宿屋の主人が、夜な夜な花をもてあそぶ。それで、女主人がよけい花に辛くあたる。イジメる。酔っぱらった客は、花にいたずらをする。
花に逃げ場はない。裏手から出て、鶴森明神の境内でわずかな休息の時間を過ごすのみだ。かがみこんで膝を抱え、大声で泣きじゃくることもあった。
しかし、いいこともなくはない。太郎と出会ったのも、この境内だったのだ。
先ほどの場面のすぐ後のことである。

「どうかしたのか。なんで泣いているのか」
 男の声がした。声変りしたばかりのようだ。
 花はふりかえった。涙の膜のむこうに、男が二人、立っていた。
「太郎、ほっておけ」
 小柄なほうがいった。
「どこか、痛いか」
 大きいほうがいった。さきの声だった。小柄の男より若い。形(なり)は大人なのに、顔は赤く、子供っぽい。
「ううん。平気さ。どこも痛くない」
 花は、突然、元気になった。気づくと、立ちあがっていた。
「そうか。それならよいわ。あまりに大きな声で泣いていたから、びっくりしたまでだ」
わざと生意気な口のききかたをしている。
「あんた、兄ちゃんみたいだ」
 花はいい、鼻水をすすった。
「お花。お花ちゃん! どうかしたのけ」
 お宮の入口から、菊ねえちゃんの声がした。心配している。二人の男にいいよられている、とでも思ったのだ。そそっかしい。
 菊ねえちゃんを無視し、
「あんた、金太郎みたい」
 といって、花は笑った。
「足柄山のか……」
男はつぶやき、不意と赤くなった。
すると、花も熱くなった。涙に汚れた顔が恥ずかしい。
                   (『北条百歳 花の小田原』第二巻、10~11頁)

IMG_1949.JPG


平成の立派な石の鳥居をくぐり、太郎や花も歩いた御手洗池の橋を渡る。
池は、今も瓢箪型だった。
鯉が数十匹、じゃれ合うように泳いでいる。
「金太郎か……」と、思わずつぶやく。
足柄山の金太郎。長じて、源頼光の四天王のひとり坂田金時。大江山の酒呑童子を退治した荒くれ者。
だが、頼る者のない孤独な花にとっては、「心優しく力持ち」な男の象徴にすぎないのだろう。大きくて強い。それでいて優しい。だから金太郎。
ブツブツつぶやきながら、神社の敷地の外へ出た。
路上で振り返り、しばらく誰もいない境内を凝視する。
すると、今は石橋になっている橋が、花の頃と同じ木橋になり、鳥居も虫の穴がところどころ空いている木製の質素なものになった。
真名鶴が棲みついたという背後の杜が、うっそうと繁っているのも見えてくる。
目に飛び込んで来た十四歳の花は、薄汚れた身なりであっても、美しい少女だった。
瞳の光の強さに、母おかめの影が読める。
かたわらの太郎は、純粋無垢な力持ち、金太郎そのものだ。日焼けした頬を赤く染め、花を見下ろしている。腰切(こしきり・腰のあたりまでの短い着物)から伸びた長い脚やむき出しの腕には、労働で鍛えた筋肉が隆々と見えている。
「ププー」と、うしろからクラクションを鳴らされて、夢から覚めた。
道のど真ん中で立ちすくんでいたようだ。こちらが悪いので「すんません」と、そそくさ道をあけたが、こっそりと舌打ちをした。もう少し、花と太郎を見ていたかったからだ。


続く





nice!(0)  コメント(0) 

花の夢 小田原の夢 その3



小田原駅に降り立ってまず驚いたのは、ホームと駅舎が真新しくなっていたことだ。
前に小田原、箱根で遊んだのは、確か90年代末だから十数年は経っている。当然といえば当然なのか。
モダンなスケルトンのエスカレーターでホームから駅舎へと運ばれながら、昔の地下道のような改札へのトンネルを懐かしむ。改札を抜けてタクシー乗り場から振り返ると、実に小田原提灯のよく似合う駅舎だった。今の天井の高い欧州風のコンコースに、提灯などまるでそぐわないではないか。

とまれ、いつまでもそのような、昭和懐古趣味的不平不満を並べ立てても始まらない。
とりあえず、小田原に来たのだから小田原城へ行ってみようと、小雨のそぼ降る中、すたすたと歩き出した。もはや日本全国どこででも見られる凡庸な駅ビルなぞ、振り返って見る気にもなれない。
小田原城址公園は、「あじさい花菖蒲まつり」が始まったばかりで、あじさいはまだ半分程度だったが、花菖蒲は雨を吸ってみずみずしく咲き誇っていた。
両方とも、雨のよく似合う花だ。
この時期にはぴったりだな、箱根のあじさい電車と合わせて小田原市も考えたな、なかなかやるな、などとひとりごちつつ、ゆるやかな坂を登っていき、そびえ立つ天守閣を仰ぎ見る。

IMG_1904.JPG


現在の天守閣は、昭和35年、江戸時代の再建時に作成された引き図(設計図)や模型を参考に、鉄筋コンクリートで外観復元したものだそうで、内部は歴史資料館となっていた。
入り口には「小田原北条氏を大河ドラマに!」
と、意気込み盛んなノボリがはためいている。
内観料を支払い中に入ると、古文書、絵図、武具、刀剣などが、四階の各フロアにびっしり
と展示されていた。
それらを眺めつつ、最上階の展望台に出た。
相模湾や、反対側の箱根の山々を眺めてみる。
たれこめた雨雲で視界は悪かった。

実は、早雲の火牛による小田原攻めの頃の城は、現在の小田原城から、JR東海道線や新幹線の線路を越えた反対側の八幡山小峰にあった。今の小田原高校のあたりということになる。その場所だと、花のいた板橋村は、城の高台のすぐ下だ。
先に「後北条の百年間を、批評的(クリティカル)に描き続ける作者の眼を、作品中の花がひとり、担っているともいえる」と書いた。
花が、北条氏の百年を見つめ続ける主役であるのは、間違いない。
しかし、本当はもうひとり、北条早雲によってその人生を翻弄される運命の女性が、ここ小田原城内にいた。早雲の火牛による小田原攻めの夜のことである。

正確には「ここ」ではなく、八幡山小峰にあった旧小田原城なのだが、そこはカンベンしてもらって、その夜のこと。
城はまだ、大森藤頼の居城である。月見の宴が催されている。
城主も家来も、酒に酔い、舞を舞ったり女人と戯れたりしている。早雲が攻めてくるなど、まるで念頭にない。
ただ藤頼は、「箱根の山に鹿狩りの勢子を入れてもよろしいか」と、早雲自身から追従の言葉とともに懇願されていた。大森の殿様は、下手に出られて悪い気もしない。「よきに計らえ」とばかりに、自国領内に多勢で入ることを許可した。それが早雲の策略であるとは、露とも疑っていない。その間に、早雲を総大将にした軍兵たちが、箱根の山上で着々と準備を進めていた。

女は、伊乃(いの)という。
藤頼の女中として仕えている。伊乃の家は、代々大森家の家臣である。
伊乃は、藤頼の家来、和田春重の手つきの女となっていた。
宴のあった夜。伊乃と春重は、城内の武具庫で逢瀬を愉しんでいる。
二人とも、まだ若い。伊乃は十九、春重も二十歳そこそこだろう。
だが、この時代ならいっぱしの大人だ。
春重は大森の家臣として、藤頼から信頼されている。妻子もある。力量もある。ただ、少々強引な男のようだ。当然のように、伊乃に手をつけた。
欲しいものは、奪る。大将から末端の足軽まで、戦国の武士(もののふ)どもは、多少の色こそ違え、同じ思想に染められている。
再度小説から引用しよう。
情事が済んで、武具庫からひそかに戻ろうとしている場面である。宴も終わり、城内は寝静まっている頃だ。

「もう行きます」
 女中部屋にもどらなければならない。
「待ってろ、様子を見る」
 武具庫の戸が軋んだ。青白い光が、冷気とともに流れこんだ。
 棚に並んだ胴丸【簡素な鎧】が人影のようにゆらいだ。
 柱松【立明】の火は消えていたが、皓々たる月光である。
 人目につきやすく、かえって具合が悪い。
 伊乃は、一度は握った春重の手を離した。
「それでは、春重さま」
「うん」
 小袖に袴の春重を見た。
 ふと、目にちらつくものがある。
 春重の肩のむこうが、いちめんの火だ。
 火の点が闇に咲いている。
「あれ、笠懸山が燃えております!」
 伊乃は思わず声を高めた。
「なに」
 春重もふりむいた。
 火の点が線になって山肌を流れた。
 春重は土塁へと駆けた。
「山火事なの」
 柱松のしたを、伊乃も駆けた。
「いや、火事ではない。狩でもなかろう。狩にしては、火が多すぎる」
 風に乗って法螺貝の音がした。
 鉦も叩かれている。
「だれが?」
 伊乃は叫んだ。
 歯ががちがちと鳴った。
「敵だ! 夜討だっ!」
 和田春重は、からだを翻した。
 土橋を実城のほうに駆けた。
 伊乃もあとを追った。小袖の裾が足にからまって転びそうになる。
 なにが起こったのか。まだよくわからない。が、一大事であった。
 巨大な力が、月を中心に夜空に張りつめていた。それがおりてくる。押しつぶされる。
 怖い。
                (『北条百歳 花の小田原』第一巻、80~81頁)


IMG_1912.JPG


本文に、実城(みじょう)の脚注がある。
それも引用してみよう。

 実城は、一の城とか本城と呼ばれる。近世では本丸になる。この時代は、主として山城である。山の一部を平たく整地して、まわりを土盛りの土塁で囲む。そこに丸太や板で作った柵垣をめぐらす。それが「くるわ」で、曲輪とも廓とも書く。曲輪と曲輪のあいだに空堀がある。その堀にかかる土の通路が土橋で、必ずしも下に空間があるわけではない。 石垣に白壁の城が広まるのは近世以降である。


伊乃や春重のいる中世の城は、我々の見知っている近世以降の城とはだいぶ異なるようだ。それが少しイメージしやすくなると思う。

こうして攻め落とされた城から、城主大森藤頼や家臣和田春重は、ほうほうの態でかろうじて逃げ落ちる。早雲は、城が取れればそれでよい。逃げた藤頼を追ったとしても「深追いするな」と命じてある。
しかし、残された者たちは哀れである。男たちは殺され、女たちは犯される。いずれにしろ、命もふくめ身ぐるみ剥がされる。
それまでの騎馬武者による一騎打ちを排し、足軽による集団戦法を用いたのは、関東の雄、太田道灌であるといわれている。
花の父与兵衛も、酒飲みのチンピラ新兵衛とともに、足軽として「かわごえ」の戦いに参加していた。手柄を立てれば、足軽にも褒賞は与えられるだろうが、そうでなければ、「基本手当」のみしか得られないのかもしれない。
だから、攻め落とされた城では、悲惨な光景が展開されることになる。略奪、強姦、殺人、なんでもあり。
早雲のような大将の立場からすれば、じゅうぶんな褒賞が支払えない場合、次の戦の士気、ひいては自軍の戦力に関わってくる。そのため、ある程度は不問に付される。
表向きは「ダメ!」とお触れを出しても、実際は目をつぶる場合だってある。こういったダブルバインドは、古くからこの国の得意とするところだ。

ただ、伊勢新九郎、後の北条早雲の場合はじゃっかん事情が違ったようだ。
これからの領国経営を考え、略奪、強姦の類を禁じている。それだけでなく、伊豆に次いで奪取した小田原でも、五公五民が当たり前だった年貢を、四公六民として、民草(たみくさ)の人気を得た。
小説では、騎馬で戦った武者や足軽などは殺されたが、逃げ遅れた伊乃などの女中や下働きの下男などは、捕虜となって女中部屋に押し込められるだけで済んだ。
伊乃は流れ矢が腰に当たって手傷を負い、早雲の隊が連れて来た金創医(軍医)に、手当てまでしてもらっている。

伊乃が若くて美しかったので、伊豆から足軽として早雲の隊に参加していた修善寺の団治が、後に地元へ連れ帰っている。伊乃とて、和田春重に捨てられたも同然で城に残されたのだから、新しい男団治にすがる他、すべはない。
小田原攻めの戦において団治の働きが目ざましかったので、早雲は城内で手ずから褒美を与えた。元城主大森藤頼の「弓籠手」(ゆごて) だ。立派な藤の刺繍がほどこされた美しい品が、あわてて逃げたためか、ポツンと無防備に残されていた。

実は、この弓籠手とともに、伊乃の人生もまた流転することになる。
その波乱の幕開けが、引用した「あれ、笠懸山が燃えております!」の場面になる。
このとき、すでに花のいる板橋村にも火が放たれ、「てて」与兵衛やおとは、殺されていたのかもしれない。
伊乃は、いっとき修善寺の団治の世話になるが、かつての主藤頼の弓籠手を懐に抱くようにして、団治の元を去る。早雲に仕えて、戦に出ることが面白くて仕方のない新しい男団治に、倦んだのかもしれない。
伊乃は、しばらく実家に身を寄せるが、やがて北条氏に恨みを抱く大森藤頼とその家臣の元に走った。和田春重との再会も果たした。

こうして伊乃は、大森藤頼が三浦道寸とともに三浦半島の突端新井城で、北条早雲によって滅亡するまで、運命をともにすることになる。
両者の滅亡は、1516年のこと。第四巻の最後、北条早雲の死の三年前の出来事だ。1495年に小田原城を攻められてから、21年がたっている。
伊乃の最初の男、和田春重もまた、この新井城で戦死する。
それも、なんと伊乃の二番目の男、修善寺の団治によってとどめを刺される。団治は、早雲の家来として手柄を立てようと、先陣を切って乗り込んで来たのだ。
伊乃が持っていた藤頼の弓籠手が、その場面でごろんと転がっているのが象徴的だ。

弓籠手は、伊乃だったのだ。
あたかも物品のように、男から男へと仕えては捨てられ振り回され続けた女、伊乃。
だが、男どもは滅亡しても、伊乃はしたたかに生き延びた。
戦死した兵や馬の流す血で、べっとりと油のように光ったという油壷近くの浜から、小舟で逃げ出した。
その後、血の匂いと略奪の欲に猛る足軽たちの残党狩りに会い、伊乃と合流した和田春重の妻子は犯され、無残にも殺された。伊乃もまた、臭い息を吐く獣のような男たちに、次々とのしかかられた。
それでも、伊乃は、伊乃だけは滅亡せず、生きて朝を迎えた。
第五巻以降、伊乃がどのようなかたちで物語に再登場するのか。廻国芸人、語り部となった花と違い、こちらの方はなんの手がかりも、ない。
だが、きっと、もはや弓籠手を手放した伊乃が、花と交錯するように北条の世を見つめ続けるに違いない。
花の夢は、伊乃の夢となって、重なる。


続く






nice!(0)  コメント(2) 

花の夢 小田原の夢 その2


前回からの続きです。

516jK2n-KsL__SL500_AA300_.jpg



この小説には思い入れがあった。
同じ作者の、きっちりと完成された長編小説『浅草弾左衛門』や『車善七』も良いが、長い物語の途中で投げ出された花の夢に、奇妙な愛着を抱いているのかもしれない。
昔から、無情にも道半ばで断たれてしまった人生や作品に固執する癖が、私にはあった。
阪神淡路の震災で、多くの未発表童話作品をダンボールに収めたまま死んだ、ひとつ年上の姉のことが念頭にあるのかどうかは分からない。
なぜか、早逝する作家や未完成の作品を、姉の死以前からあえて選んで読んで来たような気もする。
例えば、30歳まで、怒涛のごとく生き抜いた詩人、中原中也。
らい病と診断され、23歳の若さで、苦悩の内に死んだ北条民雄。
全共闘運動のさなか、悩みぬいた上で鉄道自殺した大学生、高野悦子。
古くは、樋口一葉、梶井基次郎、石川啄木などもそうだ。
中国文学に依拠しながら、古典的な名作を残した中島敦も好きだった。
みな早逝した作家たちである。

yjimage.jpg


ブルックナーの交響曲は、作曲者の死によって、第三楽章で中断された第九番を何度も繰り返し聴く。モーツアルトなら、死の床で途中まで書いて事切れた「レクイエム」か。ドストエフスキーは、書かれることのなかった第二部を想像しながら、断筆となった『カラマーゾフの兄弟』を読む。
さらに、「第二部は、カラマーゾフ兄弟の末弟、アリョーシャによる皇帝暗殺が描かれたに違いない」などという詮索本を読むと、ミステリーを読むよりもワクワクする。
なにゆえに、そうまでも中途で終わってしまった作品や生に固執するのか。一度、精神分析家にでもたずねてみて、自分の深層心理を読み解いてみなければなるまい。
そのことと、昭和のロマンスカーを好むことと、なんの関連があるのかは分からない。だが『北条百歳』に関しては、もうひとつ同じような問題があった。
それは、この本が、活版で印刷されているということだ。
これまた昭和の、もはや消えゆく運命にある技術。
あえて作者は、「活版印刷で」と出版社に依頼したことを、第一巻の巻末、「memo」に書いている。

 批評社の佐藤英之氏に無理をいって、本書は活版による印刷である。一字一字の輪郭が鮮明に紙面に刻まれる魅力は捨てがたいものがあるが、この長編の完結まで、その技術者たちが仕事をつづけられる状況があるのかどうか。保障の限りではないとのことだ。
                  (『北条百歳 花の小田原』第一巻、「memo」383頁)


第一巻を上梓したばかり。第二巻を執筆中の頃だと思われるが、なにやらこれも、百年後の北条の滅亡を予言するかのように「呪ってやる」と馬上の早雲を睨んだ、五歳の花のようでもある。
この小説の行く末を、作者自ら感知していたのだろうか。

DSC00026.JPG


活版印刷。
凸版印刷の一種で、鋳造活字を使用し印刷版を作り、その突出した部分にインクをつけ紙面に圧力印刷する方法。長く印刷の主流を占めていたが、現在はオフセット印刷にその位置をゆずり、今はほとんど利用されていない。
鋳造活字の活版印刷は、ドイツの金属細工職人グーテンベルクによって15世紀ヨーロッパで始まった。これが、いわゆる「グーテンベルク聖書」を生み出すことになる。
この新しい印刷技術と新約聖書の普及が、マルチン・ルターの宗教改革をもたらし、やがて「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」 を産み出したというのが、かつて「社会科学」なる言葉が意味を持った時代に流行したセオリーだ。
印刷技術が、結果的に、今や地球上を席捲してしまった観のある資本主義的商品経済システムを生み出した。ほんまかいな。
資本主義の発生うんぬんについては、今から考えると、少々マユツバもののような気もする。
だが、プロテスタントの宗教改革は、聖書の大量印刷によって可能になったわけだし、アメリカ帝国主義は、プロテスタンティズムの申し子だ。
グーテンベルクさんは、なかなかに大変な発明をしてしまったことになる。パンドラの箱を開けてしまった。
この国の活字鋳造技術は、明治に入ってからである。27文字しかないアルファベットとは違い、日本語は、桁が二つ三つ多い数の活字を必要とするからだ。
しかし、明治以降の近代化に、活字と活版印刷が大きく貢献したというのは間違いではないだろう。それは「国民国家の近代」という時代が、大量印刷を求めたからでもある。江戸の木版印刷では、新聞や書籍の大量印刷は不可能だった。
この活版印刷と近代新聞の誕生について、かつて塩見鮮一郎は、「新聞事始」という一文を書いている。
1993年刊行の『江戸の下層社会 朝野新聞編』 に収められているから、ちょうど、活版印刷本『北条百歳』を出版して二年後になる。

 誕生したばかりの活版印刷は、まず新聞と結びつく。新聞社を最大のお得意にした。いや、こ こは正確に、活版印刷が可能になったことで、日本に近代新聞が発刊された、というべきだろう。逆に、新聞が活版を必要としたから、活字鋳造の技術が発展した面もあろう。この稿の冒頭で、ひとつの時代が、その必要とするものを生みだしていくさまは驚くほどである、といったのはこのことである。
                     (『江戸の下層社会 朝野新聞編』解説、134頁)
              

日本の近代化に、活版印刷は必要不可欠だった。必要だから新しい技術が発展する。この場合、木版から活字鋳造、活版への発展である。
だが、このことは、まあいわば教科書的な事実に過ぎない。
面白いのはこの後だ。
塩見鮮一郎の書いていることを要約すると、次のようになる。
明治二年の和字鋳造の成功に次いで、明治3年には活版印刷による新聞が発行される。さらに翌明治四年には、「横浜毎日新聞」や「大阪府日報」など、「府県がスポンサーになった新聞」が次々と発行された。参議 の木戸孝允は、世論操縦のために「新聞雑誌」という新聞を出している。
このように、活版印刷技術の誕生後、わずか1、2年で「ヒモつき」の新聞が、次々と発行されたのはなぜか。
明治4年といえば、「廃藩置県と解放令(賤称廃止令)でもって封建的身分制度が解体された年」になる。この(明治四年の)制度一新と、近代新聞の誕生とは「わかちがたくむすびついている」というのだ。
徳川時代、藩と身分制が「上位下達」のコミュニケーションを可能にし、保証していた。幕府の意向は、江戸城から各地の大名へと、まずはヨコに広がる。各藩の江戸屋敷から、参勤交代を通じて、地方の藩へと伝わっていく。
一方の身分制は、タテの情報伝搬ルートになる。
ここからは、引用してみよう。

 こうして全国各地に水平に伝えられた情報は、こんどは身分制の階梯を縦にくだって、家老か ら庄屋へ命令され、また「お触れ」として百姓や被差別民にまで達した。江戸市中でも同じで、町奉行から町役人へ、あるいは弾左衛門を通して猿飼(さるかい)や乞胸(ごうむね)や非人に伝えられた。廃藩置県と解放令とは、とりもなおさず、これらのコミュニケーションのルートの破壊にもつながったのである。
                  (『江戸の下層社会 朝野新聞編』解説、135~136頁)


明治政府は、みずから、国民との情報伝達ツールを放棄してしまった。
後からそのことに気づき、泡を食ったかどうかは分からないが、参議の木戸孝允は、新聞という新しいメディアに飛びつき、政府が積極的に関与することになる。
このことが、現代にまで続く政府とメディアの関係に影響を及ぼしている。
「政治の様相が変遷し、印刷技術が電子化しても、たいして変わっていない」(同書)ということになる。これは、3年前の原発事故報道でも証明されている。
活版印刷で、超長い脱線をしてしまった。
メディアが政府べったりの状況をいつまでも変えられないことに、活字活版印刷の技術は、なんの責任もない。むしろ「電子化しても、たいして変わっていない」ことで、無実は証明されたのだが、役割を終えた技術は、ひっそりと消えていく運命にあった。
作者は、第一巻の巻末「memo」で、「この長編の完結まで、その技術者たちが仕事をつづけられる状況があるのかどうか」と危惧していた。
活版印刷による書籍の印刷は、もはやどこの印刷会社も行っていない。名刺などの小規模印刷を行っている会社が数社、残っているのみである。
もし仮に、第五巻以降の物語が書かれることがあったとしても、それを活版印刷で出版することは、もはや不可能だろう。
物語が未完であることに加え、消えてしまった技術で作られた本。
私のような人間が固執する理由が二つもそろっている。
しかし、そうであるからこそ、本の造りにまで愛着が生まれる。
ロマンスカーのシートのような、人間味のある印刷と製本。『銀河鉄道の夜』のジョバンニではないが、一字一字活字を拾った職人のことを想像してしまう文字の並び。
単なる情報伝達ツールではなく、モノとして、手作り感さえする本。
閑話休題。
とにもかくにも、「はこね1号」LSE7000形昭和のレトロ特急は、時おり強く吹き荒れる雨風の中にもかかわらず、定刻の八時一三分、小田原駅のホームにすべりこんだ。


続く


odawara-1.jpg







nice!(0)  コメント(0) 

花の夢 小田原の夢 その1

ずっとブログを休止して文章を書いていました。

花の夢 小田原の夢

というタイトルの、エッセイとも小説ともいえる、ジャンルレスな文章。
文体もこのブログとは異なりますが、しばらくここで分割掲載したいと思います。

内容は、しばらく続けて来た「『北条百歳 花の小田原』を読む」と同じです。



IMG_1890.JPG



花の夢を見ている。
いや、正確には、夢の夢を見ているのか。
六月初旬。箱根が紫陽花電車でにぎわいを見せ始める前に、急ぎ小田原に向かうロマンスカーに飛び乗った。
塩見鮮一郎の小説、『北条百歳 花の小田原』について書くための取材のつもりだ。
ロマンスカーは、新宿七時〇分発、特急はこね1号。
LSE7000形は昭和の名車両である。
今日の始発なので、折り返し運転ではない。
車庫から出てきたばかりのピカピカに眩しい車両が、ゆっくりと一番線のホームに入って来たところを、数枚デジカメに収めてみた。五時起きして新宿に来たので眠くて仕方がないが、久しぶりのご対面に興奮する。やはりカッコいい。
7000形は、1980年デビューの豪華でクラシックなデザインが人気の車両だ。
だが、平成に入ってしばらくすると次々に最新型が導入され、あっという間にレトロな車両になってしまった。モードは時代が作り出すが、それによって、実質的な使用価値はほとんど無視される。私には古臭さを感じないが、人によっては流行おくれの「ダサい」電車と映るのだろうか。
それに、今はロマンスよりビジネスの時代なのか、ロマンスカーと銘打ちながら、即物的な合理性を重視したデザインの車両ばかりだ。ロマンすなわち夢の物語、というイマジネーションが、作動しない。
しかし、早朝のLSE7000形に乗り込み、これぞロマンスの名にふさわしいヒューマンな造りのシートにもたれると、私の想像力は一気に小説が書かれた頃の小田原へと飛翔する。線路の上を滑るように、というよりも、小田原、箱根へぐいぐいと引っ張られるような走りが、また心地よい。ロマンスカー、夢の特急はこね号は、こうでなければいけない。

もう四半世紀。二十五年になる。
長編歴史小説『北条百歳 花の小田原』 は、1988年から九一年にかけて、小田原で執筆された。当時は、私の乗っているこのレトロ特急車両が、最新型のロマンスカーだった。作者もこの列車に乗って、新宿と小田原を幾度となく往復したことだろう。
当初は、全十巻で完結される予定だった。しかし、第四巻、北条早雲 の生が幕を閉じたところで筆を断たれてしまった未完の小説である。
小田原「後北条」と後に呼ばれた北条氏五代の初代、北条早雲の火牛による小田原攻めから始まって、氏綱、氏康、氏政、氏直と、百年間の壮大な物語になるはずだった。『北条百歳』とはそういう意味だが、小説の舞台も、小田原を拠点にして、伊豆、鎌倉、三浦半島から、代が変わるにつれて関東一円に拡がっていく構想になっていた。
つまり北条氏は、乱世の覇者として、着実に覇権を関八州(かんはっしゅう) の大地に拡大していったということになる。秀吉によって滅ぼされ、約百年間の栄華が幕を閉じるまでは。
たいていの歴史小説なら、特に戦国武将ものならなおさら、以上のようなプロットでじゅうぶんである。これに、姫君がどこへ嫁いで誰を産んだか、といった男女の恋愛感情をからめたサブプロットが用意されればそれでよい。
男は外へ出て百人の敵と戦い、女は子どもを産み、家を守る。現代にまで生き延びているこの観念が、近代富国強兵路線のもとで創造されたものだということが、もう少し強調されてもよいだろう。それと符合して、大衆に人気の戦国武将ものは、小説もテレビドラマも、性的役割分業が明確すぎるくらい明確だ。

しかし、この小説に関しては、さらに注釈を加えねばならない。
タイトルに『花の小田原』とあるのは、「花のお江戸」などというときの「華」という意味もある。江戸以前の関東で最も栄えたのは、北条氏の小田原なのだからそれで良いのだが、「花(ハナ)」という登場人物のことでもあるのだ。花もまた、百歳の長寿を得て、小田原の北条百年をひとり見届けるという設定になっている。
ちなみに、北条早雲は歴史上の人物だが、花は作者の想像から生まれた。後北条の百年間を、批評的(クリティカル)に描き続ける作者の眼を、作品中の花がひとり、担っているともいえる。
早雲の火牛を用いた小田原攻めのとき、花はまだ五歳。
箱根から小田原に出る街道筋の板橋村に、父、母、兄とともに住んでいた。
小田原駅を出たロマンスカーが、箱根登山鉄道の線路に乗り入れ、箱根の山から流れ落ちてくる早川にぶつかる前に、右へと大きくカーブする。そのカーブの先に「箱根板橋」という駅がある。このあたり一帯が、かつての板橋村だ。
その名の通りの急流、早川と並行して箱根から東海道を下って来ると、板橋村から先はもう小田原城下になる。今も地名に「板橋見附」という名が残されている。Uターンして視点を転じると、城下から街道筋を見張っていることになる。東京の赤坂見附などと同じ。あやしい者や敵が来ないか、「見附」けるための番所や櫓があったのだろう。
板橋村は、その板橋見附から箱根に向かって広がっている。
花の家族は、ここで大根などの野菜類を栽培して城下に卸し、生計を立てていたのだろうか。農耕馬として、「おと」という馬を一頭所有していた。
いずれにしろ寒素な農村である。
だが、花はじゅうぶん幸福だったのだ。
花の「てて」(父)与兵衛は、新兵衛という浜に住む大酒呑みのチンピラの口車に乗って足軽になり、戦(いくさ)に出かけたりもする。「かか」(母)の「おかめ」は優しいが、気が強く、少々癇癪持ちのようだ。兄の与太郎はといえば、ごぼうのようなか細そい足で、どこか頼りない。
それでも花が幸せだったのは、箱根の山々と、相模の海と、幾筋もの川に囲まれた板橋村が好きだったから、だろうか。

しかし、花の幸せは、花が生を受けてからわずか5年で激変する。
それは、1495年のこと。
火のついた二本の松明を角にくくりつけた百頭の火牛と、荒れ狂う早雲の武士団が、箱根の坂を駆け降り板橋村になだれ込んだ。
小説では、早雲が先陣を切る武士団に「火で脅かせ!」と命じている。小田原城にいる城主大森藤頼を、火牛の猛進によって大軍が攻め寄せたように見せかけたのである。
勢い切って突進して来た火牛と武士団は、板橋村にも火を放つ。
もちろん城には手を付けない。後で自分たちが乗り込むために、攻め入っているからだ。代わりに、付近の農村が焼き払われた。そのひとつが板橋村だった。
以前、同じような光景を、オリバーストーン監督の映画で見た。ベトナムの農村を焼き払う米軍だ。材木と草で出来たアジアの農民の家は、ひとたび火を放てば、あとは好き勝手に燃える。ゲリラたちをかくまったと判断されたベトナムの農村は、家畜から備蓄された米などの食料まで燃やし尽くされた。
500年前の中世小田原でも同じ光景が繰り広げられる。
板橋村の場合、反北条勢力に協力しているなどの疑いはなかったが、戦略上の理由だけで先陣の武士団に火を放たれた。
花の「てて」与兵衛は、農民にとって最も大切な財産である農耕馬「おと」を助けようと、騎乗の武士に立ちはだかり、槍で胸を貫かれた。なまじチンピラ新兵衛などと、足軽として戦を経験したことが仇になった。
このとき、総大将の早雲は、まだ箱根の山上にいる。
一夜明けて城が落ち、花たちの板橋村がくすぶって煙を上げている頃、きらびやかな甲冑をつけて馬上の人となり、勝者の大将として板橋村を通過した。
手に入れたばかりの小田原城は、もはや目の前である。六三歳 という年齢からしても、徹夜の城攻めの指揮で疲労困憊しているはずだ。
それでも、気持ちはいつになく高揚していただろう。
小田原を落とす。
それは、それだけの意味が、この馬上の武将にはあった。
だが、花たちになんの意味があろうか。
「てて」と「おと」を殺され、家を焼かれ、村も田畑も焼き尽くされた。
花たちは、近くの御塔山(おとうやま)で一夜を明かした。夜が明け、板橋村に戻ろうとすると、総大将の早雲の隊列が、意気も揚々と東海道を下っていくのが見えた。
するとどうだ。
先に、「てて」の遺体を回収しようと村に戻っていた「かか」が、早雲の行列に割って入り、馬上の武将につかみかからんとしているではないか。
 ここから先は小説を引用しよう。
花と早雲が出会いお互いを確認する唯一の場面であり、この物語百年の時間を、予感させる重要なシーンである。

  かかもててと同じ目にあう、と花は怯えた。
 「かか」
と呼んで、花も山道から海道にとびおりた。からだが鞠のように、はずむ。
「花、もどれ。もどるんだ」
 と与太郎が叫(おら)んだ。
「人殺し!」
 母がいった。喉のはりさけるような声で、相手を叱った。馬上のじじいにつかみかかった。
  眉庇(まびさし)【兜の庇】の奥のじじいの目が丸くなった。兜の緒にしめつけられた口が、なにかいいたそうに動いた。
  ヘの字が一の字になり、またへの字になった。
  おかめの手が鐙【馬具の足入れ】をつかんだ。
  じじいは足を抜くと、毛沓(けぐつ)で母の顔を蹴った。
  よろめく母の背を、口取(くちとり)【馬の口の縄を引く人】が、弓で激しく叩いた。ぱしっ、といやな音がした。
  おかめは、路上につんのめった。だが、声をたてなかった。
「かか」
花は母をかばって、じじいをにらんだ。
じじいは目をそらせた。
だが、通りすぎてからふりかえった。
ふりかえって花を見た。羨望する目つきであった。
花は見返し、一生、呪ってやる、とつぶやいた。
じじいが死ねば、じじいの子を呪ってやる、と。
子の子も呪ってやる、と。
じじいの家来たちの馬が、なにごともなかったかのように、土埃を巻き上げながら、花と母のそばをすぎて、小田原にむかった。
              (『北条百歳 花の小田原』第1巻、104~105頁)


DB004-0201E_001_rl1.jpg


ここに予言されているのは、書かれることのなかった約百年後の小田原である。
1590年。
豊臣秀吉が、家康等の大軍を率いて小田原を攻め落とし、北条氏は滅亡する。早雲の小田原攻めが1495年とすると、95年後である。
タイトルにある『北条百歳』には、5年満たない。
引用のシーンは、花が五歳の時だったことを思い出そう。
馬上の早雲を睨みつけ、「一生、呪ってやる」とつぶやいた花。
五歳の幼女花は、早雲との出会いから北条氏五代の世を生き延び、百歳の老婆になって、秀吉の小田原攻めと北条氏の滅亡を見届けるのだ。
しかも花は、第三巻あたりから、流浪の生の果てに諸国を巡る廻国芸人となっている。おそらく、全十巻まで書かれたとしても、この設定は変わらなかったであろう。
手に持ったささらを、「さっささらさら」と擦りながら、辻辻で「東の国」の記憶が刻まれた説経節「をぐり」でも、語って聞かせたのか。
作者とともに語り部となった花。
今も人気の戦国武将ものが語る武士の戦争と栄華の物語ではなく、どのような語りを、我々に聞かせてくれたのだろうか。

ロマンスカーは、昨夜から降り続けている雨の中、ぐいぐいと我が身を小田原へ、小田原へと引っ張っている。
小説にも描かれる松田荘のあたりの川音川(かわとがわ)は、泥流になっていた。
山と山の間を、列車は、川とからまるようにして走っている。泥流を渡ったと思えば、しばらく並走し、また渡る。なかなかにスリリングだ。
ここを抜けて、河原の広い二級河川、酒匂川(さかわがわ)を渡れば、「もう小田原は目の前だ!」と、旺文社マップルシリーズの地図「小田原市・箱根町」を広げながら、小声でつぶやいてみた。
悪天候の影響か、私の乗っている4号車には数人しか乗っていない。
先ほど、「はこね1号」なのに「小田原へ、箱根へ」と書かなかったのは、昨夜の大雨で、箱根登山鉄道が全線運行を休止しているからだ。「はこね1号の終着駅は、小田原までに変更されました」と、新宿を出て早々にアナウンスが入っていた。
しかし、小田原にこそ、用事も思いも集中している私には、なんの影響もない。
昭和のロマンスカーは、とうとう山王川を小さな鉄橋で通過した。地図を見ていなかったら見過ごしてしまうような川だ。
だが私は、すぐさま河口の浜町にある山王神社を想起する。
そこら一帯の浜には、不幸続きの花がゆいいつ心を許した男、「皮田」(かわた) 身分の太郎が、仲間とともに獣の皮を剥ぎ、陽光に晒しているはずだった。
それを眺める花の目の先には、右に真鶴左に三浦と、ふたつの半島に挟まれた相模の海が、花を包み込むように広がっているだろう。
小田原はもう、見えている。


続く





nice!(0)  コメント(2) 

またまた小休止 武士のイメージを見なおす

41y2eh+AbbL__SL500_AA300_.jpg

小説『北条百歳 花の小田原』について書くために、いろいろと文献を漁っております。
すると、こんな本に出合いました。

野口実著『武家の棟梁の条件』中公新書、1994年。
サブタイトルは「中世武士を見なおす」です。

月並みな言い方ですが、これには「目からうろこ」でした。
何がと言いますと、以下のような指摘。
これは「はじめに」の冒頭書き出しです。

『日本人は相変わらず武士が好きである。プラスイメージを持っている。テレビでは、御存じ「水戸黄門」をはじめ、NHKの大河ドラマも主人公はみんな武士。悪い武士もいるが、それは本来の武士にあらず、からなず立派で強い「正当な」武士があらわれる。ビジネスマン向けの雑誌も、すぐ会社経営のノウハウを「戦国の名将」の軍略に求めたり、「男」の生き方を「武士道」に学ぼうとしたりする。』

確かにその通り。最近は「歴女」とか「歴ドル」(歴史好きアイドル!?)なども出て来まして、空前の歴史ブームだそうですが、それらもみんな武士武将の話ばかり。若い女性もオヤジ化しているわけです。
地方のお土産も、例えば、こんなかんじ。よく見ますね、こういうの。

yjimageR08CR3N0.jpg

私も、ずっとずっと長いあいだ違和感を覚えていました。
でもそれは大人になってからのこと。
子どもの頃は、何を隠そう、ミリタリー少年でした。告白しますが。。

タミヤのプラモデル、戦車、軍艦、戦闘機が大好き。戦国武将が大好き。お城が大好き。
なんであんなに、「戦さ」ばかり追っかけていたのだろう???

まわりに、少年の心をつかむ「戦さ」アイテムがあり過ぎるんですね。それに、学校で習う歴史も、武士の権力闘争と戦争ばかり。

野口実は、次のようにズバリと指摘します。

『現代の日本人のイメージする武士がその実像とは程遠く、実は近世に観念化され、明治以降、国家主義的教育のなかで、民衆レベルにまで定着したものであるという事実は客観化しておく必要があるだろう。文武兼備の武将源義家から足柄山の金太郎に至るまで、国民に広く浸透したのは、権力によって作られた虚像なのであった。』

で、この本は、その武士の虚像を暴き、「中世武士を見なおす」ために、タイトルのテーマ「武家の棟梁の条件」を、細かく分析しているわけです。
その本論については書きませんが、武士のイメージが近代以降に創造されたものという指摘は、私にとって大変な事件でした。そう、これは深く追及せねばならぬテーマなのである。

696869.png

こういう人のドラマが流行るのも、このことと関連するのかもしれません。
集団的自衛権だの、自主憲法だのも。

実は、武士の時代の始まりから現代まで、武士の存在と「外敵」はセットです。
最初は、東北侵略。「征夷」の「夷」は、東北の蝦夷(エミシ)。権力のトップはいつも征夷大将軍。
さらに秀吉の朝鮮侵攻。そして近代のアジア侵略。
今、我々が直面する問題も。

51iZtAO4-kL__AA160_.jpg

高橋克彦著『東北・蝦夷の魂』現代書館、2013年。

この本は、侵略された東北の側から書かれたもの。しかも3・11の衝撃の後、書かれています。
好戦的な武将のプラスイメージを払拭するためにも、ぜひおすすめの好著です。








nice!(0)  コメント(4) 

小説『北条百歳 花の小田原』(塩見鮮一郎著)を読む その6

さて。少しずつ小説の中身を紹介してきました。
これからもノンビリいきます。なんせ、舞台は中世ですから。

主人公は北条早雲。これは後世になって呼ばれた名前で、存命時は伊勢新九郎・宗瑞です。
小説の始まりの小田原城攻めの時点で、すでに63歳のジイサン。
でも、これからまだまだ大暴れします。数々の戦(いくさ)もそうですが、側室もいれば、子どもも作る。
88歳で死ぬまで、バリバリ現役。ぴんぴん。

あ、新宿赤ひげ薬局のコピーみたくなってしまいました。
早雲は「オットピンS」でも飲んでたのでしょうかね。。(汗)

冗談はさておき、ここで私の立場表明を。

歴史家から見れば、北条早雲の生年とか、出生地とか、いろいろと考証せねばならないことがらは多いようです。京都政界との連動で動いたのか、ただの下剋上かでは、ぜんぜん違ってきますし。

でも、小説『北条百歳 花の小田原』は、作者の想像力で描かれた世界。
北条早雲は実在の人物ですが、先に紹介した「花」や「伊乃」は、作家の想像(創造)です。
それらが、絡まり合った小説世界を、歴史考証で云々してもしょうがない。
小説に登場する北条早雲は、実在の人物であって、実在の人物ではない。それで良いと思うのですね。

ただし、時代考証の作業は大事ですけど。
極端にいえば、かっこいいからといって、その時代にはなかったハズの石垣で小田原城を表現しちゃうとか。これはナシですね。面倒でも、ここはリアルに描かねばなりません。そのための時代考証に、作家は相当の時間を割いているはず。

なので、歴史小説に描かれた世界は、リアルに表現された完全な虚構である、と思うのです。
その意味では、現代小説となんら変わりません。
そもそも小説なんざ、楽しんで読むもの。それ以上でも以下でも、ない。という考えもありでしょう。「楽しくなければ小説じゃない!」と。

そう。それでいい。
でも、あえて私の立場を限定すると、私は小説から「何か」を発見することに、少々の悦びを感じます。
「それ以上でも以下でも」でいえば、ほんの少し「それ以上」の「何か」。

いや。ここで嘘はやめましょう。
本当は、「それ以上の何か」がなければ落胆します。「何か」があるのなら、じゃっかん「楽しさ」が薄くても、読む。
そもそも「楽しさ」って、何なんでしょう???
「楽しい」には、「楽」(ラク)という意味もある。

ハイ、ここで広辞苑。
らく【楽】
①心身が安らかでたのしいこと。「安楽・娯楽・楽園」
②好むこと。愛すること。
③たやすいこと。やさしいこと。「楽勝・楽観」

先日亡くなった渡辺淳一の『失楽園』は、①の「安らかでたのしい」世界を「失った」物語なのでした。
②は、「愉しむ」の方を最近は使いますか。

そして、③の「たやすいこと。やさしいこと」。
「楽しければいい」というときの「楽しさ」には、この③の意味が強く含まれますね、特に最近は。
「易しさ」は「優しさ」にもつながる。「人にやさしい」「地球にやさしい」というと、本来は「優しい」の意味でしょうが、だんだんと「易しい」の方にウェイトがかかってきている気がするのです。
「やさしくなければ~じゃない」というときがそうですね。

さまざまな商品が流通する市場では、この「易しさ」が大きな価値を持ちますし。
そこで、優しい「人・モノ」は、どんどん易しい「人・モノ」(わかりやすい人・モノ)になっちゃっているわけです。
「人・モノ」ならまだしも、社会とか組織とか、世の中に起きていることとか、かつて起きたこととか、人間の心理とか、行動とか、そういう複雑怪奇なことがらまで「優しい=易しい」解釈を、無意識のうちに、集団で、追い求めているように思えてなりません。

市場経済にすべてがおおわれた結果、こういうことになってるんでしょうねえ。
小説もまた、マーケットの論理に支配されてしまいましたから。

ようやく戻ってきました。
ここは小説『北条百歳 花の小田原』について書いていたのでした。

実在の人物北条早雲。それに「花」や「伊乃」をからめた小説世界は、完全なる虚構。
でも、そこから「楽しさ」以上の「何ものか」を読み取りたいというのが、私の立場でした。
長々と、すいません。

それが何かは、まあおいおいと。

花と伊乃については、以前も少し書きました。
特に、タイトルにも入っている花。早雲の小田原攻めのときに、父を早雲の武士団に殺された花。
小田原の外れの板橋村で、農民として、貧しいながらも、家族ともども幸せに生きていくはずだった花の人生は、このあと大きく流転します。

花は、母の「おかめ」と兄といっしょに、母の実家の村に身を寄せますが、その後、小田原城下の宿屋に奉公に出されます。
奉公先での辛い日々は、これまで幾度となく表現されてきた世界ですから、なんとなく想像が出来ますね。ご多聞にもれず、花もたいへんな苦労をします。

この小説の独特なところは、「賤民」たちをきっちり描いていること。
奉公先で辛い目にあっている花は、太郎という青年に出会います。
太郎は、当時の皮革産業の担い手である「皮田」(かわた)の一人。
虐められ、いたぶられ、男どもに嬲られて孤独な花と、「足柄山の金太郎」のように無垢な青年太郎との交流は、読んでいてホッとしますね。

こうして、伊豆から小田原、関東へ打って出ようとする伊勢一族(北条早雲)の凄まじい戦記録に、この花と太郎や、さらに伊乃の物語がからまって、物語は進んでいくわけです。

そして。とうとう花は宿屋を抜け出します。
旅芸人の男に付き従って、良いことの何もなかった小田原を脱出する。

芸人は、ささら擦り。
こんなかんじで、町の辻で立って芸をする。説教を語る。戦記を語る。

Sekkyoubushi.png

やがて。
花もまた、ひとりの旅芸人となって、放浪を始めるのです。
女ささら擦りの誕生。

しかし、ここでもまた、小田原の北条が、花の人生を大きく狂わせ、苦悩のどん底におとしめるのでした。

続く






nice!(0)  コメント(7) 

小説『北条百歳 花の小田原』(塩見鮮一郎著)を読む その5

th.jpg

今回は、この建水(こぼし)のことを書きたいのですが、すんごい遠回りします。
最後まで付き合ってくれると、ありがたし。
「こぼし」って、そうだったんだ! という人もいると思いますよ。

124349279666816228713.jpg

写真は願成就院(がんじょうじゅいん)。伊豆にあります。

司馬遼太郎が、「足利家の威健が地に堕ちる日であったといってよく日本国に戦国の世がはじまった日であるといってもよかった」と曖昧に表現した、北条早雲の堀越公方足利茶々丸を攻め滅ぼす場面のことは書きました。

そのとき、公方のいた堀越御所と共に、北条早雲によって焼き払われたお寺です。(江戸時代に北条の末裔が再建)

ところで、「堀越公方(ほりごえくぼう)ってなんやねん!」と思うむきも多かろうと思うので(もちろん私もそうでした)、まずはウィキから。

長禄元年(1457年)、室町幕府8代将軍足利義政が対立を深める古河公方足利成氏への対抗策として、天龍寺で僧籍にいた異母兄の足利政知を還俗させ、翌2年(1458年)に京都から関東へ正式な鎌倉公方として送った。しかし鎌倉に入ることが出来ず、手前の伊豆堀越に留まる事になり、そこに堀越御所を建設した(初め国清寺を陣所としたが、長禄4年(1460年)に焼き討ちされて別の場所に移った)。一方の成氏は鎌倉を追われたものの下総古河城に拠り北関東を中心に健在であり、鎌倉公方が両雄並び立つ状況であった。このため、政知は古河の鎌倉公方成氏に対する堀越の鎌倉公方として堀越公方と称されたのが始まりである。

とあります。整理すると、
京都・室町幕府8代将軍→足利義政
伊豆・堀越公方    →足利政知⇒茶々丸
北関東・古河公方   →足利成氏
となります。名前が似ているのでややこしいですね。
この時点では、もはや鎌倉公方は分裂して、堀越と古河に二分しています。

ちなみに鎌倉公方は、関東公方ともいいますが、「室町幕府の征夷大将軍が関東十か国における出先機関として設置した鎌倉府の長官」のことです。

ついでに関東とは、「奈良時代以来、坂東と呼ばれてきた相模国・武蔵国・安房国・上総国・下総国・常陸国・上野国・下野国の8か国に、伊豆国・甲斐国を加えた10か国」のこと。

この中の、伊豆国のみの領主のような存在になってしまった堀越公方。
とはいえ、室町将軍の出先機関ですから、政知の息子茶々丸と義母円満院との内紛があったとはいえ、北条早雲ごときが攻め滅ぼすとは、「新時代の幕開けじゃ!」という解釈は、江戸時代初期からあったようです。
で、通説にしたがって、「日本国に戦国の世がはじまった日」と、司馬にも言わしめたのですね。
最近では、ただの下剋上ではなく、京都中央政界との連動で、北条早雲が動いたという見方が有力のようです。

『北条百歳』第一巻では、「小田原攻め」が冒頭にありますが、物語が進むと時間軸を戻して、この「伊豆攻め」についても書かれています。
茶々丸を滅ぼした「伊豆攻め」から三年後。「小田原攻め」は昨年です。堀越御所や願成就院があった場所のほど近く、早雲の側室「小萩」が住む館を訪ねてくる場面です。
早雲の居城、韮山城を出て、焼け払われた(早雲自身が焼け払った)御所や願成就院の跡地を歩きながら、当時の争乱を思い浮かべています。

そもそも、骨肉を争う凄惨な事件から、早雲の「伊豆攻め」に発展したのでした。小説では、現在のような「京都中央政界との連動」ではなく、この内紛に乗じた下剋上的な侵攻という立場ですから、早雲も必死です。茶々丸の首を取らねば早雲自身が「逆賊」になる可能性が高い。
茶々丸も必死で逃げる。早雲は、堀越御所に火を放ちます。御所なんぞが燃えようが意に介さないが、自らが願成就院を灰燼に帰すのは、躊躇がないわけではなかった。

以下、小説から引用。側室小萩を訪ねゆく道すがらの早雲です。寺の焼け跡を通りすぎる場面。山門だけが焼け残っています。
供に高桑令次郎という従者ひとりを連れている。

 「令次郎、いつかは再建してやらねばなるまいのう」
 と、また遺言になった。
 「はい。だが、伊豆にしては、途方もなく大きな寺でした……七堂伽藍に池を配し、それに南新御堂や北条御堂、北の塔などがありましたから」
 高桑令次郎は目を細めた。
 焼ける前を知っている。堀越御所を訪ね、修善寺温泉に行く途中、ここに参詣した。
 「全部を一度にはできまい」
 宗瑞(早雲)も思い出していた。寺は守山を背に壮大であった。
 源頼朝の執権【政所長官】であった北条時政が、文治五年【1189年】にこれを立てた。頼朝による奥州藤原攻めの成功を祈願してである。寺の名は、願いの成就を求めている。
 「惜しいことをしました」
 令次郎も門内を見た。
 「なに、だいぶ古びていた」
 と弁解した。が、低すぎて、蝉の声にかき消された。
 宗瑞とて、焼きたくなかった。だが、堀越公方の足利茶々丸に、ここへ逃げこまれた。

北条早雲の「伊豆攻め」には諸説あって、不明な点が多いのです。しかも従来の説では、この大伽藍の焼き討ちや茶々丸攻めの後、伊豆の豪族に抵抗に合い、これを滅ぼす場面も凄惨極まりない話が続きます。城に立てこもった500人を、女子ども老人でさえ、ことごとく首をはねて城の周りに並べた、とか。

それもあってか、この節では、基本は側室である小萩を訪ねていくのんびりした時間。その裏に、伊豆攻めのどす黒い時間が流れている。そんな構成になっています。
途中、土地の農家の老女に、「斑瓜」(まくわうり)をタダでせしめるエピソードなどは、むしろコミカルに描かれます。ケチで有名な北条早雲ですから。
で、最後に、小萩の家で、令次郎らと共にこの瓜を食べるシーンでしめくくる。
この陰と陽のギャップが、秀逸ですね~。
以下に引用しますが、いろいろとゴチャゴチャ書いたので、もう詳しくは説明しません。
瓜を食べながら小萩が軽くジョークを言ったところ。

 小萩は、二歳、鯖を読んで若くいい、笑った。
 宗瑞(早雲)は思わず噴きだした。笑い声だけではなく、斑瓜の種もでた。
 小萩がすかさず建水【零し】をさしだし、それを令次郎が中継ぎして、宗瑞に渡した。

はい、ようやく出てきました。
建水・零し。「こぼし」と言います。なんでしょう、これ?
塩見鮮一郎のブログでおなじみの、あれ。

6949167.jpg

粒がさかさまで、ブツブツブツ……
まさに「こぼし」ですね。洒落てます。

HP「茶道入門」を見てみると、
『建水(けんすい)とは、席中で茶碗をすすいだ湯水を捨て入れるための器です。建水は最も格の低い道具として、点前の際は勝手付に置かれ客からは見えにくいところで使われ、会記でも最後尾の一段下げたところに記されています。 古くは「みずこぼし」といい、水翻、水覆、水建、水下などと書いています。今は建水と書いて「けんすい」と呼び、「こぼし」ともいいます』

だそうで。

1256w800.jpg

最初の写真の建水のように、金属製が多いみたいですが、このような陶製もあります。
ブログの「こぼし」も陶製のようですね。

え?
長々と書いて、それがどうしたって?
オチですか。

いや~、、、、それがですね。
ただ、今回は、「早雲の伊豆攻めと、伊豆の側室訪問」の節を読んでいたら、ぽろっと「零し」が出てきたので、嬉しくなっただけです。
ええ。ただそれだけ。

でも、「零し」ってなんだか気になりません?
「茶碗をすすいだ湯水を捨て入れるための器」で、「最も格の低い道具」だなんて。
でも、「零された」ものを拾い集めて作品にするのが、作家の仕事でもあるんですね。
その「零し」が、こんなところでお目見えしたので、紹介してみたくなったのでした。

続く







nice!(0)  コメント(4) 

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。