象鼻山から伊吹山を望む
写真は象鼻山。南宮山脈の最南端にあります。別名「別所山」とも言われているそうで。
八世紀、多芸七坊といわれた山岳修験の寺院が、養老の滝近くから旧伊勢街道沿いに点在していました。そのひとつが象鼻山のふもとにあった。その名も「別所寺」。
古代から象鼻山あたりは「別所」として有名だったんですね。
象鼻山から尾根伝いに歩けばすぐに南宮山。そこには製鉄の神カナヤマヒコを祀る南宮大社があることはすでに書きました。
南宮大社と伊吹おろしと産鉄・製鉄について書き記したのは、民俗学の大家、谷川健一で、その著書『青銅の神の足跡』は有名ですね。
非常に興味深く読みました。自分の郷里というか、本籍地の話ですし。
ただ、谷川の著書には、菊池山哉も別所も、いっさい出てきません。どうしてなのかな。
菊池の別所論だと、エミシの配流地であることは間違いなさそうだ。
それに柴田の説を加えると、養老の別所は、南宮大社や伊吹山という土地を考えても、想像力がフル回転する。空想、ほとんど幻想かもしれないけど。
ただ、その空想に待ったをかける要素もたくさんあります。
まずは、塩見鮮一郎も紹介している「エミシが自分の馬と、ヤマトの鉄器(農具)を物々交換していた」という記録があること。
「王臣や国司がきそって蝦夷人の飼育した馬、それだけでなく、蝦夷人そのものを買いあさり、とどのつまりは、現地の公民を略奪するとか馬をぬすみとるとか、ずいぶんあこぎなことをやった。他方で公民たちは、法網をくぐった蝦夷と物々交換をおこなった。そのために、《国家の貨》である綿が蝦夷人の衾(ふすま)になり、冑鉄(ちゅうてつ)はつぶされて先方の農具になるというありさまであった。そしてあとのばあいについては、すでに天平時代に按察使大野東人(あぜちおおのあずまびと)がこの問題をとりあげて禁令をだしていたという。」(北山茂夫『日本の歴史4平安京』)
ヤマトの公民は禁令になるほどエミシの馬などの物資を欲しがった。
エミシはエミシで鉄製の農具を欲した。
そういう記録だが、これが真実であるなら、エミシが産鉄をよくしていたこと、ヤマトのエミシ侵略の真の目的が《鉄》だという論は、成り立たないことになる。
続く
2013-07-07 12:54
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